2019.06.19
# 戦争

たった2日で3000人以上が戦死したマリアナ沖海戦の悲劇

からくも生き残った搭乗員の怒りの証言
神立 尚紀 プロフィール

すばらしい若者たちが次から次へと死んで行く

2日間におよぶ戦いが終わったとき、日本機動部隊には61機の飛行機しか残っていなかった。米軍は6隻が損傷したものの喪失艦艇はなく、飛行機の損失は、戦闘によるもの43機、事故や不時着によるもの87機。戦死者は約110名。対する日本側は空母3隻と油槽船2隻が沈没、損傷6隻。基地航空部隊も合わせて470機以上の飛行機と搭乗員を失い、戦死者総数は3000名を超える記録的大敗だった。この、昭和19(1944)年6月19日、20日の日米機動部隊の戦いを、「マリアナ沖海戦」と呼ぶ。

 

勢いに乗る米機動部隊は、日本本土からマリアナ諸島への増援を遮断するため、中間に位置する小笠原諸島の硫黄島に猛襲をかけ、6月24日、7月3日、4日の3度の空戦で日本軍航空部隊を壊滅させた。ちょうど梅雨の時期で、本州南岸に停滞する梅雨前線に阻まれた事情もあるとはいえ、日本側は戦力を逐次、小出しに投入しては、各個に撃破される悪循環をいたずらに繰り返した。これは、2年前のガダルカナル戦の失敗と何ら変わることのない、日本軍の悪弊だった。米軍を凌駕する戦力を一度に揃えられないのは、日本の国力の限界だったと言っていい。そもそも、アメリカの物量を相手に、はなから勝てる見込みのない戦争だったのだ。

米軍はサイパン島に続き、グアム島、テニアン島にも上陸、いずれの島も多くの戦死者や犠牲者を出して陥落した。やがてサイパン、テニアンの飛行場から発進したB-29が日本本土に大規模な空襲を繰り返し、都市を次々と焼き尽くしてゆく。マリアナ沖海戦の大敗は、まさに日本の敗戦を決定づける出来事だった。

「『瑞鶴』の搭乗員室で、戦死した戦友の遺品を整理して並べながら、悔しいとも何とも、そのときの気持ちはとても言葉では表せない。私らは、ただ行けって命じられて行っただけですが……。惜しい人たちを大勢亡くしたと思いますね。体格はいい、頭はいい、器量はいい、世のなかにはこんな人もおるのかな、と思うようなすばらしい若者たちが次から次へと死んでいって、それがいまでも残念です。戦後も、一日たりとも思い出さなかったことはない。あの人たちが生き残っていたら、どんなにか日本は変わっただろうと思うんですよ」

と、藤本速雄さんは言う。これは、戦って生還した全ての人たちに共通する思いであるに違いない。

関連記事