昭和19年6月18日、マリアナ沖海戦前日に「瑞鶴」飛行甲板で。前列右から、藤本速雄さん、花村雅之上飛曹、田村雅夫飛長。椅子に座っているのは小隊長・山本一郎少尉。藤本さん以外の3名は、翌日の戦いで戦死した

たった2日で3000人以上が戦死したマリアナ沖海戦の悲劇

からくも生き残った搭乗員の怒りの証言

グアム、サイパンをはじめとするマリアナ諸島——今はリゾート地となり、連日多くの日本人観光客が訪れる。

75年前の今日、1944年6月19日に、この島々の沖合で日米の機動部隊が激突した。

マリアナ諸島が奪われれば、日本本土が空襲にさらされることになり、この島々は本土防衛のための最終ラインだったのだ。この決戦に大敗したのち、日本本土は焦土と化すことになる。

惨敗に終わったこのマリアナ沖海戦をからくも生き延びた搭乗員が、戦後50年を経て絞り出すように口にしたのは、日本の将来を背負うはずだった優秀な若者たちをたった2日で3000人以上も戦死させたことへの怒りだった。

 

わずか10分で味方機が全て撃墜された

「敵戦闘機・グラマンF6Fヘルキャットは、機銃弾が命中してもほとんど火を噴かない。ところが味方機は、ちょうど綿にガソリンをしめらせて火をつけたみたいにバーッと燃えて落ちてゆく。海面には撃墜された味方機の油紋がいたるところに広がり、炎を上げているのもある。悲惨という言葉ではとても言い尽せない。ああ、これがこの世の地獄だと思いました」

と、藤本速雄さん(旧姓池田。当時二飛曹、のち上飛曹)は回想する。いまから75年前の昭和19(1944)年6月19日、日米機動部隊が激突した「マリアナ沖海戦」に、藤本さんは、空母「大鳳」「瑞鶴」「翔鶴」の第一航空戦隊3隻の空母から発艦した第一次攻撃隊(零戦48機、彗星艦爆53機、天山艦攻27機、計128機)零戦搭乗員の一員として「瑞鶴」を発艦、参加していた。

日本海軍の空母「瑞鶴」

「それでもみんな突っ込んでいった。敵艦隊が、どれが空母か戦艦か判別がつかないぐらい遠いところに見えた。高角砲をバンバン撃っているから、あそこに艦隊がおるんだな、と。

零戦の一個小隊は4機で、私は真珠湾攻撃以来のベテラン・山本一郎少尉の三番機でした。空戦しながら、私がちょっと振り向いたら、四番機の田村雅夫飛長(飛行兵長)機がいなくて炎の塊がバーッと墜ちていくのが見えた。やられたな、と思っていると、次に二番機の花村雅之上飛曹機が撃墜されました。

グラマンが、息つく暇もなく上から攻撃してくる。10回か15回、攻撃をしのいだと思われたとき、4機が上空から降ってきた。曳痕弾が私の機をかすめたから退避して、一瞬、一番機の山本少尉機との距離が離れた。ふたたび編隊を組もうと近づこうとしたところで、一番機が撃たれて火を噴いたんです。戦闘が始まって10分かそこらのことでした」(藤本さん)

空母「瑞鶴」を発進した零戦搭乗員・藤本速雄さん(旧姓池田)の戦中、戦後(戦後の写真は撮影:神立尚紀)

昭和16(1941)年12月8日、日本陸軍によるマレー半島上陸、海軍によるハワイ・真珠湾攻撃に端を発する太平洋戦争は、はじめの半年こそ日本軍が破竹の進撃で占領区域を広げたが、翌昭和17(1942)年6月5日、日米機動部隊が対決、日本側が空母4隻を失う大敗を喫したミッドウェー海戦を境に勢いが止まり、同年8月、アメリカとオーストラリアを遮断するために日本軍が飛行場を建設していたソロモン諸島ガダルカナル島に米軍が上陸したあたりから形勢が逆転していた。

昭和18(1943)年2月、ガダルカナル島の日本軍撤退。同年半ばになると米軍は一大反攻に転じ、日本軍が占領していた太平洋の島々を次々と攻め落としていく。日本の大本営発表を通じ、「玉砕」という名の全滅がしばしば報じられるようになるのはこの頃からである。

昭和19(1944)年2月17、18日には、日本の委任統治領で聯合艦隊の一大拠点であったトラック島(現・チューク諸島)が米機動部隊による大空襲を受け壊滅。司令部が後退した先のパラオも、3月30日、31日の空襲で大きな打撃を受けた。

もし、米軍がこのまま侵攻を続け、サイパン、テニアンをはじめとするマリアナ諸島が敵手に落ちたら、日本本土の大部分が、アメリカが新たに開発した大型爆撃機・ボーイングB-29の行動圏内に入ってしまう。そうなれば、戦いはもはや詰んだも同然である。マリアナ諸島は、日本にとって何が何でも守らなければならない、最後の防衛ラインと考えられていたのだ。