教科書の記述はもう古い?「明治憲法」をめぐる歴史の新常識

「研究の最前線」をゆく
高校までの歴史の教科書で学んだことは、最新の研究では否定されていることも多い。目からウロコの「歴史の新常識」を、気鋭の若手研究者が解説します。今回は、“明治憲法の新常識”について。

明治憲法の負のイメージ

明治憲法(大日本帝国憲法)といえば、ドイツに学んだ欽定憲法。絶対的で変えることが想定されていない不磨の大典。イギリス流の政党政治を排し、天皇の強大な権限を定め、国民の権利・自由を制限した外見的立憲主義――。

昔ながらのよくある明治憲法観である。もちろん、「そうはいっても立憲主義の要素は備えていた」とか、もう少しバランスのとれた説明がなされることもあるが、一般的に明治憲法には負のイメージがつきまとっている。そして、当時の指導者たちがどのような考えをもって明治憲法体制をつくり運用していったのかは、あまり知られていない。

日本国憲法や現代の日本の政治を論じる際に、しばしば明治憲法や戦前の体制が引き合いに出される。しかし、実態がどのようなものだったのかよくわからないままに「戦前は……」と語られるのもおかしな話である。

この20~30年間、研究の世界ではいくつもの方面で成果が発表され、明治憲法体制の見方は大きく変わってきている。そのなかから瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』(講談社選書メチエ、2003年)と同『明治国家をつくった人びと』(講談社現代新書、2013年)を取り上げながら、改めて明治憲法について考えてみたい。

明治国家の西洋体験と国制

『明治国家をつくった人びと』には、次のように書かれている。

「筆者はかつて、『文明史のなかの明治憲法――この国のかたちと西洋体験』(講談社選書メチエ、2003年)と題する本を著した。この時念頭にあったのは、「明治国家の西洋体験」というテーマであった。

明治期の日本の西洋体験というとき、われわれはこれまで視野を在野の啓蒙思想家に限局してことを論じてこなかったであろうか。

文明開化や殖産興業というスローガンのもとでの明治政府による「上からの近代化」は別にして、思想や精神の問題としての西洋文明との接触とその継受は、専ら権力から自由な知識人の課題として受け止められてきたように見受けられる」。

「明治“国家”の西洋体験」というところがポイントである。瀧井氏がいうように、従来、思想を論じる際には在野の知識人・言論人が取り上げられることが圧倒的に多かった。無機的な「国家」、つまり政府や制度、権力が厳然として存在することを前提に、それと対峙した側の視点であるとか異なる方向性を指し示していた思想が紹介された。

しかし考えてみれば、その「国家」をつくったのも人である。それも、一人や二人ではない。中心的な役割を果たした人物もいれば、間接的に影響を与えた人物もいる。初期に制度設計にたずさわったものの早逝した人物もいれば、後々になって台頭し制度の性格を変えていった人物もいる。

それらの人物たちは、西洋文明との向き合い方も人それぞれであった。瞠目した者もいれば、反感を持った者もいた。西洋諸国と日本との差に危機感を覚えた者もいれば、日本の着実な進歩に手ごたえを持った者もいた。

そうした群像劇のなかから明治国家が成立してくるさまを描いたのが、『文明史のなかの明治憲法』、『明治国家をつくった人びと』の両書である。どちらにおいても憲法制定がストーリーの核になってはいるが、論じられているのは憲法典そのものだけではない。「国のかたち」、あるいは「国制」を問おうとしている。君主を国家のなかでどのように位置づけるのか。国民はどう政治に関わるのか。議会はいかなる役割を果たすのか。それらを総合的に考えてつくられるものが国制である。統治に関わる制度の総体であるのと同時に、いかにしてそれを運営するかというところも含む。

国制は変容していく。ひとたび法典というかたちで文字化されればそれで完結するわけではない。例えば、明治憲法制定時点では政党を中心とする政治は否定されていた。一党一派の意見や利害にとらわれず国家的見地から政治をおこなっていくのだ、というのが藩閥政府の姿勢だった。ところが憲法制定の中心人物である伊藤博文自身が、議会開設後じきに政党を率いることを考え始め、最終的には立憲政友会を組織する。

他方で、両書にも書かれているように、政府内には議会・政党に対し根深い不信感を持っている者もいた。井上毅や山県有朋である。伊藤と井上、あるいは伊藤と山県との折衷や綱引きのなかで、明治憲法はつくられ運用されていった。