# ポストモダン # ポスト・トゥルース # 新しい実在論

ポスト・トゥルースを突き抜ける新しい哲学の挑戦

マルクス・ガブリエルと新しい実在論
浅沼 光樹 プロフィール

ポストモダンと「新しい実在論」

もちろん哲学者は反省したり後悔したりしていただけではない。実を言えば、2016年にポスト・トゥルース的状況が顕在化する以前から、その段階的な進展を睨みつつ、対抗運動の準備が進められてきた。「新しい実在論」と呼ばれる一派がそれである。

約一年前に来日し、テレビでも特集番組が組まれたマルクス・ガブリエルは、マウリツィオ・フェラーリス、ポール・ボゴシアンなどと共に中心人物の一人である。

マッキンタイアの言う「本物の遺憾の意の表明」を新しい実在論の人々は、アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』を念頭に置きながら「ポストモダンの弁証法」と名づける。そして社会構成主義に攻撃の狙いを定め、彼ら自身の「事実性からの論証」を対置する。つまり「真実はなく、解釈だけがある」というスローガンに「いずれにしてもなんらかの事実はある」というテーゼによって応戦するのである。

この事実の次元をどこに求めるのかは哲学者によって異なっている。

たとえば、フェラーリスは感覚が開示する知覚の世界に、ボゴシアンは近代的理性が見出す自然科学的な世界に、そうした事実の次元を求めている。フェラーリスによれば、外的感覚においてわれわれは、必ずしもわれわれの意のままにならないモノの抵抗を、環境の抵抗という形でたえず受け、それによって単なる「実在性」を超えた「現実性」に出会う。

他方、ボゴシアンによれば、ポストモダンの考える完全に平等な相対主義は原理的にありえず、経験(実験)と合理性とを基準とする近代科学的な認識が特権的な認識の枠組として優先されなければならないのである。

 

ガブリエルとポスト・トゥルース

これに対してガブリエルは「ある」の分析から出発する。

ガブリエルによれば「ある」と「どこ」は互いに切り離せない。この「どこ」をガブリエルは「意味の場」と呼ぶ。この意味の場は無数にあり、どのような観点から捉えるのかに応じて、たとえ同じものでも複数の意味の場に現われることができる。しかしその一方で伝統的に「世界」と呼ばれてきた「有るものの全体」、ガブリエルの言い方では「あらゆる意味の場の意味の場」は端的にないのである。

「有るものの全体」がそこに根を下ろしている究極の地盤はなく、ローカルな意味の場の無限の重なりだけがあるのだとしたら、ガブリエルの思い描く「有るもの」の眺望は、ポストモダンのそれに限りなく接近するように見える。特に、自然科学の対象は宇宙という一つの意味の場にすぎず、それに並んで無数の意味の場が対等の資格をもって存立している、とガブリエルが強調するとき、自然科学的真理の批判という一点において、両者の間の距離はほとんどゼロに等しくなるように思われる。

しかしそれならば、ガブリエルもポストモダンと道行を共にし、ポスト・トゥルースへと突き進んでいく以外にないのではないか。