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# マルクス・ガブリエル # ポスト・トゥルース # 新しい実在論

ポスト・トゥルースを突き抜ける新しい哲学の挑戦

マルクス・ガブリエルと新しい実在論

ポスト・トゥルース時代の「嘘」

「ドナルド・トランプはニーチェとジャック・デリダの後継者なのではないか――こんなふうに哲学者たちはこの上なく真剣に問うてきた。真と偽の違いを無視する態度は典型的な「ポストモダン」の態度ではないか。世界を「オルタナティブな事実」でいっぱいにするためにソーシャルネットワークを利用するならば、それによって〈事実はなく解釈だけがある〉というニーチェのテーゼがもう一度くりかえされているのではないだろうか。」

これは昨年刊行されたフランスの哲学者ミリアム・ルボー・ダロンヌの『真なるものの弱さ』に寄せられた書評の一部である。「ポスト・トゥルースは(真正の)問題ではない」という書評のタイトルが示すように、話題となっているのは〈ポスト・トゥルース〉と言われる状況である。

2016年にオックスフォード辞典の今年のワードに選出されたことでポスト・トゥルースという言葉は広く知られるようになった。そこではポスト・トゥルースは「世論を形成するにあたり、客観的事実より感情や個人的信条に訴えることの方が影響力をもつ状況」と定義されている。

 

2016年といえば、EU離脱を決めたイギリスの国民投票とトランプ陣営が勝利したアメリカ大統領選がおこなわれた年である。二つの出来事に共通しているのは、その過程で真偽のはっきりしない情報がメディアを通してばらまかれ、その疑わしさが指摘されていたにもかかわらず、蓋を開けてみると「嘘」を活用した側が勝利する、というシナリオである。

政治家の嘘は昔からくりかえされてきたもので、とりたてて珍しくないと言われるかもしれない。しかし従来の嘘とポスト・トゥルース的状況下におけるそれとの懸隔は大きい。

真実が暴かれるや否や、嘘をついた側は糾弾され、釈明に追われるのが、これまでは普通だった。しかし昨今では嘘の証拠を突きつけられても、嘘をついた当人は全く動ずることなく、それによって支持者を失うこともない。

したがってもはや真理や事実を隠蔽するために嘘がつかれているのではない。そもそも隠蔽されるのは、ある意味において真実の重要性が認められているからであろう。しかしいまや真実は隠蔽するという労力にさえ値しない。というのも、それ以前の前提として真実と虚偽の境界が完全にとりはらわれているからである。