不倫は要注意? どういう人が地獄に堕ちるのか

よくわかる!〝地獄の歩き方〟
加須屋 誠 プロフィール
 

「お前は、他人の悪業ゆえに、地獄の苦しみを味わっているわけではない。自分自身の愛欲ゆえに、お前は自分自身を苦しめている。そう、これはまさしく自業自得(じごうじとく)なのだ」

――源信の『往生要集』には、このように記されています。

「なるほどね」「亡者とは愚かな行為に走るものだね」と、私たちは瞬時に納得するでしょう。しかし、一歩踏みとどまって、もう少し思索を深めてみましょう。

結局地獄はどこにあるのか?

私が誰かを好きになる――この世における恋愛感情は、まずはじめに異性を見つめ、それに続いて二人で会話をしたりすることから、いつの間にか、相手のことが忘れられなくなり、その姿を追い求めるようになるものです。

悪くすれば、ストーカーのような行為に走る者もいますが、そこまでならずとも、心のなかではいつも相手のことを想い続ける。念願が叶って、相手がこちらに関心を示してくれることもあるかもしれないし、また逆に、するりとこちらから身をひるがえすこともありえます。「もう忘れよう」と思った矢先に、相手が自分に対して積極的に振る舞う仕草をみせて、私の心を乱すことがあるかもしれません。

この地上において、誰かを好きなったがゆえに傷つくのは、常に私にほかなりません。ならば、それは「自業自得」というしかないでしょう。

このように、我が身のことに思いを巡らしてみると、はっと、気がつきます――「私たちは、決して衆合地獄の亡者を、あざ笑うことができないのではないか」と。

私もあなたも、刀葉樹を登り降りするあの亡者と同じ心持ちで、恋しい人に思いを寄せているのではありませんか? 言い換えるなら、現実世界の在り方は、地獄の責め苦と瓜二つのように思われるのです。

拙著『地獄めぐり』でも指摘しているように、私たちは、誰であっても無意識の領域では、制御不能な強い欲望を抱いています。エロス・暴力・快楽への耽溺……。それを意識レベルでコントロールすることにより、普段の生活においては他者と協調して生きることを心かげます。

倫理観・自制心・羞恥心……。私たち一人ひとりの心の構造は、意識と無意識のせめぎ合いです。心のうちでさまざまなエネルギーが噴出し、ぶつかりあい、ようやくなんとか平衡を保っているのです。

しかし、その平衡は必ずしも盤石ではありません。いつか(明日かもしれない、1年後、10年後かもしれない)乱れることが、起こりえないとも限りません。

そのように考えてみると、地獄はどこか遠くにあるのではなく、私たちの心の底に普遍的に位置していることを、身に覚えのあることとして、私たち自身は確信するに至るでしょう。

今から数百年前、平安時代・鎌倉時代・室町時代といった遠い昔に描かれた地獄絵は、字義通りにいえば「美しい」とは呼べないかもしれません。画中の責め苦は、一見すると、どれも恐ろしく醜悪で、目を逸らせたくなります。

しかし、それにもかかわらず、21世紀を生きる私たちが否応なくそれに目を向けてしまうのは、地獄がいま・ここにあるからです。そう、私たちの心の中、無意識の領域にそれはあるのです。

過去の地獄絵は、私たち自身の心の奥底を目に見えるかたちで示しているがゆえに、私たちは既視感(デジャヴ)をもって、画中に描かれた場面にみとれて、我を忘れて陶酔してしまうのです。

地獄のイメージが、多くの人を惹きつけてやまないのは、このためです。

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想像してごらんなさい――地獄が(あなた自身の心のなかに)実在することを。

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