2019.06.16
# 戦争

特攻を超える戦死率75%…その戦場を生き抜いた搭乗員は何を見たか

日本の敗戦を見通しながら戦い続けた
神立 尚紀 プロフィール

皆、泣きながら戦っていた

艦爆隊は、対空砲火をかいくぐって、高度3000メートルから急降下に入った。ときに12時5分。江間保大尉は、ルンガ泊地の中央に停泊している大型輸送船に狙いを定めた。目標の先には多くの敵戦闘機が集まっているのが見える。

「あ、いやがる」

と江間大尉は思った。

「高度1500」

後席の偵察員、佐伯繁喜飛曹長の声が、伝声管を通じて伝わる。江間大尉は照準に全神経を集中した。飛行機は敵船めがけてまっしぐらに降下してゆく。

「用意」

高度650メートル、目標はぐんぐん迫ってくる。

「テーッ」

高度450メートルで、江間大尉は爆弾の投下把柄を引き、同時に操縦桿を渾身の力で引いた。強いGがかかって、機は敵船すれすれに海上に飛び出す。しかしそこには、数知れない敵戦闘機が待ち構えているのだ。

〈敵戦闘機はべったり群がっていて、通り抜ける隙間もないぐらいであった。〉

と、江間大尉は手記に記している。

 

爆撃を終えた江間機は、7~8機の敵戦闘機の追尾を受けた。敵機は代わるがわる後上方から攻撃を加えてくる。後席の佐伯飛曹長は胸に2発の機銃弾を受けて即死した。戦果を確認するどころか、列機の状況を確認する暇もなかった。イサベル島南端の、定められた集合地点に集まったのは、江間機を含む3機だけだった。江間機は片方の車輪を撃ち抜かれたほか、プロペラから尾翼まで、なめたように機銃弾が命中しており、その弾痕は50数発におよんでいた。

零戦隊もまた、かつてないほどの悲愴な戦いを続けていた。直掩任務を帯びた二五一空・大野竹好中尉(2週間後の6月30日戦死)は、遺稿となった手記のなかで、

<今や爆撃隊を守り通すために、戦闘機は自らを盾とせねばならなかった。降り注ぐ敵の曳痕弾と爆撃機の間に身を挺して、敵の銃弾をことごとく我が身に吸収し、火達磨となって自爆する戦闘機の姿、それは凄愴にして荘厳なる神の姿であった。(中略)

海面すれすれを這って高速避退する爆撃機、これに襲いかかる敵戦闘機、これを追い散らし蹴散らす味方戦闘機、スコールのような敵砲火で真っ白に泡立つ海上で、これらの間に凄烈なる戦闘が展開された。艦爆危うしと見るや、救うに術なく、身をもって敵に激突して散った戦闘機、火を吐きつつも艦爆に寄り添って風防硝子を開き、決別の手を振りつつ身を翻して自爆を遂げた戦闘機、あるいは寄り添う戦闘機に感謝の手を振りつつ、痛手に帰る望みなきを知らせて、笑いながら海中に突っ込んでいった艦爆の操縦者。泣きながら、皆、泣きながら戦っていた。>

と、その凄絶な空戦の模様を記している。

また、二〇四空零戦隊の八木隆次さんは、艦爆隊が急降下に入るとき、前方に突っ込んだ中村二飛曹機が被弾、煙を吐き、神田佐治二飛曹機が、身を挺して艦爆の下にもぐり込み、敵戦闘機に撃たれて火を噴いたのを目撃している。

ルンガ沖航空戦に参加、生還した、左から中村佳雄二飛曹、八木隆次二飛曹(ともにのち飛曹長)

「艦爆もずいぶん煙を吐いて突っ込んだ。下にもグラマンがいて撃ち合いが始まっていた。宮野大尉が煙を吐いた中村機に不時着の指示を与え、空戦場に引き返してきた後、二度見た。翼端が切ってあり(三二型)、胴体に黄帯二本のマークのついた隊長機が飛び回っているのを見ましたよ」(八木さん)

八木さんが見たのを最後に、宮野大尉機の消息は途絶えた。この戦闘で、日本側は米軍機28機を撃墜(うち不確実2機)、大型輸送船4隻、中型輸送船2隻、小型輸送船1隻を撃沈、大型輸送船1隻を中破させたと報告したが、米側資料によると、この日の米軍戦闘機104機のうち、失われたのは6機に過ぎない。輸送船1隻と戦車揚陸艦1隻が大損害を受けたが、いずれも沈没をまぬがれている。

二〇四空飛行隊長・宮野善治郎大尉。困難な任務を率先して引き受ける若き名指揮官として信望が厚かったが、ルンガ沖航空戦で戦死した。享年27

いっぽう、日本側の損害は、零戦15機が未帰還(戦死15名)、1機不時着水、4機被弾(負傷2名)、艦爆13機が自爆または未帰還、4機被弾(戦死28名、負傷1名)という大きなもので、戦死した零戦搭乗員のなかには、名指揮官と謳われた宮野善治郎大尉ら歴戦の搭乗員も含まれていた。艦爆の損失にいたっては、未帰還機だけとっても過半数を超える致命的な数字だった。当時南東方面艦隊参謀だった三代一就中佐の回想によると、宮野大尉には近く内地帰還が言い渡されるはずであったという。

生還した零戦、艦爆の多くは途中のブカ、およびブイン基地に着陸し、その日のうちにラバウルに帰投したのは、渡辺秀夫さんをふくめ6機に過ぎなかった。

「搭乗員があまり帰ってこないので、二〇四空副長の玉井浅一中佐が心配して私を呼んで、『どうしたんだ』と聞くんだけど、私にも他の人のことはよくわからない。宮野大尉と森崎予備中尉が帰ってこないということで、司令も副長もがっかりされているようでした」

と、渡辺さんは回想する。進藤三郎さんは、

「総指揮官たる私がグラマンに空戦を挑んだことで隊形がくずれ、そのため味方が苦戦したのではないかと、ずっと悔やみ続けました。グラマンに追われてやっと振り切ったとき、思わず安堵のため息をついたことを、自分自身、心底恥ずかしく思った。しかし、無線も通じないのに100機近い編隊を意のままに指揮することなど、実際にはできはしない。いままで感じたことのないような無力感にとらわれましたね……」

と語っている。

大原亮治二飛曹に代わって宮野大尉の三番機についた橋本二飛曹は、空戦中、隊長機をカバーできずはぐれてしまったことに深い自責を感じているようで、しょげ切っていた。「隊長を見殺しにしてしまって、死んだ方がよかった」と苦吟する橋本二飛曹の姿を、大原さんは記憶している。

関連記事