2019.06.16
# 戦争

特攻を超える戦死率75%…その戦場を生き抜いた搭乗員は何を見たか

日本の敗戦を見通しながら戦い続けた
神立 尚紀 プロフィール

自ら犠牲になることを進言した戦闘機隊長

6月8日、ラバウルの司令部で、参加部隊の指揮官を集めて、「ソ」作戦と、続く「セ」作戦に関する研究会が行われた。

ソロモンの戦闘で特徴的だったのは、敵戦闘機の邀撃方法である。かつては日本の艦爆隊が急降下爆撃に入る前に襲ってくることが多かったが、このところ、爆弾を投下して機体を引き起こし、避退に入るところを待ち伏せしていて、上空から撃ってくるケースが増えていた。急降下直後で、過速のため操縦が思うに任せない上に、戦果に気をとられて見張りがおろそかになりがちな艦爆は、敵戦闘機にとって格好の餌食であった。

いざ出撃すると、九九艦爆の消耗は、艦爆搭乗員自ら「九九棺桶」と呼ぶほど激しいものだった。しかしながら、艦爆隊としても、零戦隊に、攻撃までの掩護については要求できても、爆撃終了後の面倒まで見ろとは言いづらい。

 

ここで、零戦隊による艦爆掩護法について、従来にない提案が出された。口を開いたのは、二〇四空飛行隊長・宮野善治郎大尉。昭和16(1941)年12月8日、開戦初日にフィリピン・クラークフィールドの米軍航空基地空襲に参加して以来、東南アジア、北部オーストラリア、北太平洋アリューシャン列島と、休むことなく転戦し、昭和17(1942)年10月、ラバウル基地に進出以降も、つねに先頭に立って戦い続けていた。当時27歳。

宮野大尉は言った。

「敵戦闘機の邀撃を排除して、無事、攻撃目標の上空に達することができたならば、掩護戦闘機隊は3隊に分かれ、その1隊(直掩隊)は、艦爆の上にかぶさりながら、直接の掩護のためにともに急降下していき、他の1隊(制空隊)は上空にある敵戦闘機と戦闘を交え、状況によっては優位より下方の戦闘に参加するという任務を持って上空に残る。ここまでは在来の方法であるが、いま1隊(収容隊)は、艦爆隊の到達直前に先行し、目標付近に群がる敵戦闘機中に突入してかき廻し、その間に味方艦爆の爆撃を容易たらしめ、避退の間隙を与える」

艦爆隊指揮官だった江間保大尉は、

〈艦爆の指揮官として、私はこの至れり尽くせりの宮野大尉の所見は、それを聞くだけでも心強く感じた〉

と、手記に書き残している。

艦爆隊が帰還することはおろか、任務を果たすことすら難しい戦局の中で、宮野大尉の提案は、艦爆の攻撃成果を最大限に発揮させ、しかもそれを無事に帰投させようとするものだった。戦闘機同士の空戦では、高度を高く保った方が、位置エネルギーをスピードに換えられて有利である。戦闘機とすれば、宮野大尉の提唱する収容隊は、自らの優位を捨てて不利な戦闘に突入するもので、己を犠牲にするいわば囮と言っても過言ではなかった。江間大尉は、思わず宮野の顔を見た。

〈反対の意見を述べた人もあったが、結局、宮野大尉の所見は採用された。
宮野大尉はさらに細かい要領を説明し、最後に、
「この隊の指揮は私がとります」
と、実に淡々と事務的に言った。
一座はしばしシーンとなった。しばし言葉を発するものはなかった。
「いや、それは俺にやらせてもらいたい」
誰かそういう者があるかも知れないと思ったが、それはなかった。〉(江間大尉手記)

五八二空の九九艦爆指揮官・江間保大尉

6月7日の戦訓を受けて、戦闘機による航空撃滅戦、第二次「ソ」作戦が実施されたのは、6月12日のことである。この日は、二〇四空の零戦24機、五八二空の零戦21機、二五一空の零戦32機が出撃。ルッセル島上空で100機近い敵戦闘機と激突し、30機(うち不確実6機)の撃墜を報告したが、7機を失っている。

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