特攻を超える戦死率75%…その戦場を生き抜いた搭乗員は何を見たか

日本の敗戦を見通しながら戦い続けた

1942年6月のミッドウェー海戦での敗戦により、日米の形勢が逆転して以降、日本軍の拠点は次々と米軍に奪われていった。この猛攻をぎりぎりのところでくい止めていたのは、ソロモン諸島に展開する海軍航空部隊の搭乗員たちだった。

この劣勢を逆転するため、1943年6月16日に決行され、のちに「ルンガ航空戦」と名付けられた総攻撃では、手痛い敗北を喫し、多くの腕のいいベテランパイロットを失う。

この一連の戦いを担った部隊は、のちに編成された特攻専門部隊よりはるかに多くの搭乗員が犠牲となった。彼らはそのなかで、何を見て、どう戦っていたのか?

 

戦局の転換点となったルンガ沖航空戦

太平洋戦争中期、昭和18(1943)年2月、日本軍は約半年にわたって激しい攻防を続けていたソロモン諸島のガダルカナル島から撤退。連合軍はここを足がかりに、日本軍の一大拠点であるニューブリテン島ラバウルを窺い、さらなる攻勢を強めようとしていた。

日本側はそれを阻止すべく、ラバウルや最前線のブーゲンビル島ブイン基地を拠点に、零戦や一式陸上攻撃機(陸攻)、九九式艦上爆撃機(艦爆)などをもってガダルカナル島への空襲を繰り返す。だが、同年4月18日、前線視察中の聯合艦隊司令長官・山本五十六大将がブーゲンビル島上空で乗機が米戦闘機に撃墜され戦死するなど、苦戦を強いられていた。

昭和18年4月頃、ラバウル東飛行場に並ぶ二〇四空の零戦

6月16日、航空部隊はガダルカナル島の米航空兵力を撃滅しようと起死回生の総攻撃を敢行するが、米軍戦闘機の強力な抵抗に遭い、作戦は失敗に終わる。この戦闘を境に、制空権を失った零戦隊がガダルカナル島上空へ進攻することは不可能となり、逆に、連合軍は反攻を強め、ソロモン諸島の島々を次々と攻め落としていった。南太平洋で攻守のバランスが崩壊し、戦局の大きな転換点となった、「ルンガ沖航空戦」と呼ばれる昭和18年6月16日の戦いを、当事者たちへの直接取材をもとに再現する。

かつて日本海軍航空部隊の拠点だったラバウル東飛行場跡。いまは火山灰に覆われている(撮影:神立尚紀)

山本五十六聯合艦隊司令長官が戦死した昭和18年4月18日以降、ガダルカナル島の連合軍航空兵力は目に見えて増強され、昼夜を問わず、多数機をもって各日本軍拠点に空襲を繰り返すようになった。その数は、米側資料によれば、5月中にのべ2157機におよぶ。

そこで、日本海軍は、頽勢を挽回するため、大規模な反攻作戦(六〇三作戦)を企図した。この作戦の概要は、戦闘機(零戦)だけでガダルカナル島西方のルッセル島方面に進撃し、敵戦闘機を誘出撃滅する「ソ」作戦、および敵戦闘機に打撃を与えた上で、時機を見て実施する戦爆(戦闘機と爆撃機)連合によるガダルカナル島艦船攻撃の(「セ」作戦)からなるものであった。

ラバウル、ソロモン諸島要図。赤丸印の左から、ラバウル、ブカ、ブイン(以上日本軍基地)、ガダルカナル島ルンガ泊地(攻撃目標)。ラバウル-ガダルカナル間は約1000キロ

事前作戦である「ソ」作戦が実施されたのは6月7日。この日、第五八二海軍航空隊(五八二空)21機、第二五一海軍航空隊(二五一空)36機、第二〇四海軍航空隊24機、あわせて81機の零戦が出撃。ガダルカナル島手前のルッセル島上空で110機の米軍戦闘機と遭遇、激しい空戦の末、41機(うち不確実7機)を撃墜したと報告したが、9機を失い、一人は右手を失う重傷を負った。連合軍側の記録では、零戦24機を撃墜、7機を失ったと述べている。

空戦の戦果は、急降下で退避した敵機を撃墜したと思い込んだり、数機で1機を撃墜したのが重複したりして、搭乗員に作為がなくても、互いに過大になりがちである。特に迎え撃つ米軍機は、被弾してもガダルカナル島の飛行場にたどり着くことが多く、報告された戦果は実際の数倍に膨らむ傾向があった。

この日のじっさいの喪失機数は、双方の記録の損害を見比べれば、日本側9機、連合軍側7機。つまり、敵味方とも、自軍が「勝った」と判断していたものの、実数で比較すると日本側が僅差で負けている。だがこれは戦後になってわかったことで、当時は「勝った」前提のもとで次の作戦を組み立てるしかなかった。これは、出撃のたびに苦戦に苦戦を重ねた一因と考えられる。