評価には「量」と「質」のどちらが基準か、高崎山のサルに教わった話

東大教授に無茶ぶり「造形美」
佐倉 統 プロフィール
高崎山のサル大分県、高崎山自然動物園のサルたち Photo by PhotoAC

エピソードをひとつ。この本は1954年に光文社から出た後、いくつか版元を変えて再刊されている。ぼくが学生時代に読んでいたのは講談社文庫(1973年)に収められていたものである。大人になってこの本の価値を再発見したとき、この講談社文庫版も品切れになっていた。その時点で『高崎山のサル』は日本の書店では入手不可の絶滅種となっていたということだ。

しかしなんといっても日本サル学初期の名著である。科学とはなにかを考える上でも貴重な素材に満ちている。これが手に入らないのは日本の文化にとって損失ではないか。講談社現代新書編集部の堀沢加奈さんに、なんとかなりませんかとお願いしたところ、学術文庫から発刊していただけることが決まり、うれしいことにその解説(「文体・フィールド・構造──『高崎山のサル』が今もおもしろい理由──」)を書く機会もいただいた。

上で述べたことを『高崎山のサル』の内容に即して説明したこの解説は、ぼくが書いたものの中で本人が気に入っているベスト5に入る。

「意識」の研究がひらく活路

質的研究をさらにもう一歩進めて、研究者と研究対象が混然一体となったような研究を推進している人もいる。北海道浦河町の精神障害者施設べてるの家や北海道医療大学の向谷地生良(むかいやち・いくよし)、東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎らが提唱する「当事者研究」である。

統合失調症などの精神疾患や身体障害を抱えた人たちが、自らのことを語り、言葉を紡いでいく。そこには、第三者である観察者(通常は健常者)には分かり得ない、本人自身の内面の葛藤や心の揺れが記録されていく。

これは通常の意味での「研究」とはかなり趣が異なる。

研究には、客観性や普遍性が、大なり小なり要求される。主観的な「思い」を吐露するだけでは研究とは言えない。当事者研究は、果たしてこの点をクリアできているのだろうか。

しかし、自身も障害者である熊谷らは、健常者とは質的に異なる立場、視点からの「声」を、あえて「研究」の土俵に載せることで、主観性と客観性の壁に挑んでいるように見える(綾屋紗月・熊谷晋一郎『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』[医学書院、2008年]など)。

観察者、研究者が「客観的」と称するその視点は、本当に客観的なのか? 本当に普遍的なのか? そもそも、客観的とはどういうことなのか?

これは、意識の研究にも関係する問題だ。100%主観的な現象である「意識」について、世界中で多くの研究者が「科学的な」アプローチで果敢に挑戦している(渡辺正峰『脳の意識 機械の意識 脳神経科学の挑戦』[中公新書、2017年]、ジュリオ・トノーニ『意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論』[亜紀書房、花本知子訳、2015年、原著1994年]、クリストフ・コッホ『意識の探求 神経科学からのアプローチ(上・下)』[岩波書店、土谷尚嗣・金井良太訳、2006年、原著2004年]など)

当事者研究と意識研究。今はまだほとんど接点のない両者だが、きっと近い将来、融合が進んでいくと予想している。

そうなったとき、今まで「科学」と言っていたものとは、なんだかずいぶん様子が違うなあ、と思うような活動が立ち現われるのではなかろうか。

客観性や数字だけを重んじるのも、主観性や感性こそが大事だと主張するのも、どちらも的外れで役に立たない。そんな、ひからびた定量化や、子供のお遊戯みたいな感性は、まとめて捨ててしまおう。どっちも、AIやロボットがぼくたちよりずっと上手に扱ってくれる。

ぼくたちには、複雑で絡み合った価値や未来をどう作っていくか(造形!)という、もっともっと大事な課題があるのだ。そっちに取り組もうではないか。

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