評価には「量」と「質」のどちらが基準か、高崎山のサルに教わった話

東大教授に無茶ぶり「造形美」
佐倉 統 プロフィール

「数字」で示すと、3,193人の「リツイート」と5,820人の「いいね」である(2019年5月28日22時06分現在)。ぼくの今までのツイート(21,910回、同前)の中でいちばん多い反応だ。トーク番組でも取り上げられた(2019年5月22日、TOKYO FM 内の「トレンドネット」コーナー)。

こう書くと、なんだお前も定量的評価に頼っているじゃないかという批判が出てくるのだが、もちろんぼくだって数字による評価がいけないとは思っていない。ただ、それが万能であるかのように幅を利かせすぎていることを批判しているのである。

図書館や博物館の関係者からも賛同の反応があった。来館者数だけでこれらの活動を測定することへの不満である。

一方で、出版社の関係者と思しき人たちからは、「社員を食っていかせるために売り上げを重視して何が悪いのか」という意見も聞かれた。

個人的に興味深かったのは、キリスト教会の関係者から、教会の活動も信者数の増減で判断されることが多いという声があったことだ。数字に表せない価値を重視するのが宗教だと思うのだが、その活動、人の営みという点では、いずこも事情は同じようだ。

専門家は特権を正しく行使しているのか

先のポーターの著作、とくに藤垣による解題に書かれているように、専門家集団によるローカルな(内輪の)評価判断が外部に受け入れられないのは、その集団の振る舞いが信頼されていないからである。

専門家集団には、通常の規範では認められないようなさまざまな行為を行なうことが、特例的に認められている。

医師は、毒物として作用しかねない薬物を人に投与し、外科医は他人の身体を切り刻むことが許されている。法曹界は人の自由を奪って拘束し、日本ではときには命を奪うことも許されている。

これは、その専門的な技能を行使して患者の命を救ったり、社会の秩序を維持するために必要だと当該の専門家集団が専門的見地から判断することを尊重して、その判断を実行するための特例として許されているのである。つまり、専門家には特権が与えられている。

当然、このような特権を行使するためには私利私欲ではなく、公的な見地から、公明正大な判断が要請される。専門家としての矜恃と高い識見が要求される。

だが、すべての専門家がそのように公正に振る舞うわけではない。

中にはその特権を利用して私的な都合を優先したり、ときには私腹を肥やしたりする専門家も少なくない。というか、そういう輩の方が多いかもしれない。特権の乱用である。

そうすると外部集団や社会全般からの信頼は低下する。あいつら、内輪で固まって内密にことを決めているぞ、という批判的な眼差しが強まる。

そんな専門家の言うことは信用できない。外部の判断基準を導入することが必要だ。数値的根拠を示せ、客観的な判断が不可欠だ──こういう話になる。

これはまったくもってその通りである。なので世界中どこでも、工業化が進み市民社会が成熟した国では、このような「市民参加」が推進されてきた。専門家の側も、積極的に市民の考えかたや意見を取り入れるのが当たり前という風潮にもなってきた。

「遺伝子組み換え」明示に対する批判

この流れを促進した節目のひとつは、遺伝子組み換え食品である。人為的に遺伝子構成を組替えて、農薬を使わなくても害虫に耐性のあるトマトや、収穫量の高い農産物が開発されてきた。

これに対してとくにヨーロッパで市民から反対の声があがり、日本やアメリカでも同様の動きが拡がっていった。それに対し専門家たちは技術の安全性が高いことをアピールしたが、懸念の声は小さくならなかった。

GMO遺伝子組み換え食品(GMO)に反対する市民の集会(2003年、ニュージーランドのオークランドにて撮影) Photo by Getty Images

要するにこれは技術的な安全性の問題ではなくて、どのような食品を許容するかという価値観の違いの問題だったのだ(小林傳司『トランス・サイエンスの時代 科学技術と社会をつなぐ』[NTT出版ライブラリーレゾナント、2007年]を参照)。

安全かどうかではなく、そのような技術を使ってまで開発された食品、さらにはアメリカの特定の企業がそのほとんどを作っているような食品は口にしたくない──これがヨーロッパや日本の多くの消費者の声だった。

日本では今では、遺伝子組み換え作物を使っているかどうかを明示することが義務づけられている。購入者の選択に任せることになったのだ。

これは大きな前進だ。しかし一方で、遺伝子組み換え食品の恩恵を受けることができたかもしれない途上国の人々にその機会を奪ってしまったという批判の声もある。

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