評価には「量」と「質」のどちらが基準か、高崎山のサルに教わった話

東大教授に無茶ぶり「造形美」
佐倉 統 プロフィール

幻冬舎・見城社長の売れ行き部数発言が物議を醸しているが、こういった「数字至上主義」は出版業界だけでなく、至る所に蔓延している。テレビの視聴率、企業の売り上げや株価、研究者の論文数…。たけど定量的評価尺度は、元々は中身の「質」がわからない人のためのもので、いわば「仮」の指標だった。

専門的な見地からは活動の「質」を評価できないパトロンに、「ちゃんとやってますよ」と一目瞭然に示すためのものだった。「質」の評価は、目利きがちゃんとやっていた。その「質」を担保すべき作り手側の人たちが「数字のみ」を評価尺度にするようになっているのが昨今の風潮で、これは色々まずい。
(以上、2019年5月18日)

佐倉統
佐倉統

このツイートをしたときに念頭に置いていたのは、アメリカの科学史家セオドア・ポーターの『数値と客観性』(みすず書房、藤垣裕子訳、2013年、原著1995年)である。

ポーターは、19〜20世紀の保険数理士や陸軍技術部隊などを対象に詳細な分析をおこない、仲間内での評価では必ずしも評価尺度は数値化の必要はなかったのが、外部の集団に対して評価尺度の「客観性」を示す必要が出てきて定量的な評価が使われ出し、やがて信頼を得ていく過程を明らかにしている。

研究の対象となる現象(たとえば経済現象)を定量化することと、それがなぜ客観性を獲得していくのかについてもポーターは論じているのだが、ぼくが言及したいのはそっちではなくて、専門家の活動や属性を評価するときに尺度として数値を使うことの方だ。数量的かつ客観的な「業績評価」である。

このポーターの立論は説得力がある。彼の著作は国際的にも高く評価されていて、この本で1997年度国際科学技術社会論学会フレック賞(Ludwik Fleck Prize)を受賞している。

「質」も数字で評価していいのか

職場の同僚で誰がどういう仕事に秀でているか(いないか)といったことは、だいたいみなさん良く分かっていて、いちいち定量的な評価など必要としないことが多いだろう。これが専門家集団による評価、あるいは「ローカルな知識」である。ローカルというのはこなれた日本語にしにくいが、ここでは「内輪の論理」というのがいちばん近いのではないか。

だが、普段、その同僚の仕事ぶりを見ていない経営者に納得してもらうときに、そのようなローカルな知識をいくら伝えたところで、誰も納得してくれない。それは君の独断あるいは偏見ではないのか。誰が見ても納得できる客観的な証拠を出してくれ、という話になって、「数字」が必要とされる。

そもそもなぜ「数字」が「客観的」とみなされるに至ったのか、それについてはポーターの著作を読んでいただきたいのだが、お急ぎの向きには訳者の藤垣裕子による解題から読まれることをお薦めする。これだけでも15ページの立派な論文だが、日本を代表する科学技術社会論研究者による明快にして説得的な議論であり、専門家への信頼をどう考えるかなど、ポーターが触れていない論点も扱っている(抜粋がみすず書房のホームページに掲載されている)。

さて、こういった議論を踏まえて、定量的な評価はそもそもその領域に詳しくない人に納得してもらうためのもので、「質」の部分は目利きが判断しないといけないのに、昨今前者ばかりが強調されて「数字至上主義」がまかりとおりすぎていないか、というのが先にあげたぼくのツイートの主旨である。

これが驚くほどの反応があった。

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