どうしてみんな「上から」イメージできるの?
造形には造詣が深くない。
というか、苦手なのだ。頭の中に3次元空間をイメージすることが壊滅的にできない。
小学生中学生のころの、「この立体図形をこの断面で切ったら切断面はどういう図形になるか?」とか「この立体図形をこっちの方向から見たらどう見えるか?」といった類の問題が、まったくできなかった(たとえばこういったやつだ)。
方向音痴でもある。はじめて行った場所でも迷わずスタスタ歩いて行く友人にびっくり仰天して、どうやったらそんな風にわかるんだと聞いたら、事前に地図を見て自分を地図の中に置き、現地に着いたら上から俯瞰するのだという。試してみたが、まったくイメージできなかった。

車の運転を始めたころ、バックでの車庫入れがうまくできないで苦労しているのを見て、父が、上から見下すイメージを頭の中に描くとうまくできるぞとアドバイスしてくれたが、これもまったくできなかった。
こういったことは多分、訓練の問題ではなくて、なにかしら先天的な特性なのではないかと思っている。もし学習でカバーできるなら、学校で勉強し、何度も地図を見て、車の運転もこなしている今、なんぼなんでももう少し改善していると思うのだ。
改善するとかしないとか以前に、イメージがまったくできないのである。
部屋のレイアウトを平面図で考えるというのも苦手である。カタログを見て、この机は良さそうだなと思う。そこまではできる。だけど、その机をこの部屋に置いたらどうなるか、その状態がまったくイメージできない。
今の自宅を建てるときは、太田理加さんという建築家に設計を依頼したのだが、間取りやデザインはほとんどすべて妻に任せっきりだった。
太田さんは、欲のない旦那さんですねと感心してくれたが、そうではない。これとこれ、どっちがいいですか、と聞かれても、わからないのだ。
わからないことに口を挟んではいけない。幸い妻はそっち方面には関心もありセンスも良いから、任せたまでのこと。そのほうがうまくできるに決まっているではないか。唯一頼んだのは、ぼくの書斎のドアは引き戸ではなく開き戸にしてくれ、ということだけだ。
大枚はたいて家を建てるのだ。ぼくだって、少しでも良い家に住みたい。そうするためには当然の作戦だろう。
「事件」に際してツイートをしてみた
だけど昨今、自分が良く分からない事柄について、あれこれ口出しする人が多すぎやしないか。とくにそういう人が事態を左右できる権力を持つと、現場からしたらとんでもない戦略や方向性を打出して、実際の現場は右往左往して疲弊していく、という状況が、なんだか目に付く。
少し前になるが、幻冬舎の見城徹社長が、作家・津原泰水の著作の売り上げ部数をツイッターで公開して、批判を招いた。
津原も幻冬舎から自作を出版しているが、同じ幻冬舎から出ている百田尚樹の『日本国紀』のことを批判していた。しかし『日本国紀』は65万部を越える幻冬舎のベストセラーでドル箱。同じ出版社から本を出している人間が批判することに、社長としては釘を刺しておきたかったのだろう。津原の著作は売り上げ部数は少なく、経営的判断からは疑問符が付くのを、社員の熱意で出したのだ、という主旨だった。
実部数を公の場に「晒して」の発言に、高橋源一郎や平野啓一郎ら、作家たちからは批判が相次いだ。出版社のトップの発言としていただけない、作家へのリスペクトが微塵も感じられない、といった批判だ。
見城社長も、さすがにまずいと思ったのか、発言はすぐ取り消し、謝罪をした。経営者としての判断としては妥当な部分もあったかもしれない。なので、彼個人のことをどうこういうつもりはない。また、売り上げ実部数を公にしない習慣の善し悪しについても、ここでは触れない(この事件の顛末や詳細は、「Newsweek」日本版、2019年6月4号の《特集:百田尚樹現象》を参照していただきたい。熱い心と冷静な頭と強靭な取材力の持ち主であるジャーナリスト・石戸諭の面目躍如たる力作だ。見城社長のインタビューのみ、ウェブ版で読むことができる)。
ぼくが気になったのは、この「事件」の背後には「数字」による評価が幅を利かせすぎている趨勢があるのではないかということだ。
出版業界に限らず、学術界も文化業界も、なにからなにまで「客観的な」数字で評価されるのが今の御時世だ。
定量的な評価にはもちろん一定のメリットがあるが、当然、行き過ぎると弊害も目立ってくる。なので、そういった主旨のツイートをした。