「俗流歴史本」の何が問題か、歴史学者・呉座勇一が語る

井沢元彦氏の批判に答えて
呉座 勇一 プロフィール

なお、井沢氏が敬愛する故・梅原猛氏はかつて『神々の流竄』(集英社)で出雲王朝虚構説を唱えたが、島根県の荒神谷遺跡などの発掘調査の進展を受けて、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』(新潮社)で自説を潔く撤回し、出雲王朝実在説に転じた。井沢氏が梅原氏から学ぶべきは、怨霊史観ではなく、己の誤りを認める誠実さと謙虚さであろう。

第三に、『源氏物語』鎮魂説に典型的なように、確からしさより面白さを重視する点である。現代にまで伝わった史料は限られているので、過去の出来事を完全に解明することはできない。したがって、色々な解釈が考えられる局面はしばしば存在する。その時、歴史学者に求められていることは、選択肢の中から、一番ありそうな、最も確からしい解釈を選択することである。

だが一番ありそうな解釈というのは、たいてい地味でつまらない。これに対し井沢氏は、読者の意表を突く奇説を提示する。それは歴史学界の通説より意外性があって面白いかもしれないが、歴史学者が思いつかなかったというより、まずあり得ないと思って捨てた考えなのである。

 

「俗流歴史本」とどう付き合うか

以上3点は井沢氏に限らず、「俗流歴史本」の書き手に共通する問題である。これらの特徴に気をつけていれば、「俗流歴史本」に引っかかることはなくなる。

「俗流歴史本」のメッセージはみな同じだ。歴史学の研究手法に則って長年コツコツ研究しなくても、優れた作家が鋭い直感や推理力を働かせれば歴史の本質を捉えることができる。そして、その優れた作家である私が執筆した優れた歴史本さえ読めば、歴史の真実が分かるから、「専門バカ」の歴史学者が書いた本など読む必要はない。だから参考文献リストは不要だ——。

そういう本を読めば気持ち良くなれるかもしれないが、自身の成長につながるとは私には思えない。想像の翼を広げて「歴史のロマン」を楽しむことと、歴史を学ぶこととは、明確に区別すべきである