「俗流歴史本」の何が問題か、歴史学者・呉座勇一が語る

井沢元彦氏の批判に答えて
呉座 勇一 プロフィール

信長主催の安土宗論で法華宗が勝てば、信長が法華宗にお墨付きを与えることになる。それが分かっていて、全くの無為無策、出たとこ勝負で信長は宗論に臨んだ、と井沢氏は考えているのだろうか。それでは信長は公正というより、あまりにお人好しすぎるように思うのだが、いかがだろうか。

 

「ケガレ移転説」の問題点

次の論点に移ろう。井沢氏は「持統天皇の宗教改革によって日本で首都固定が可能になった」という説を主張している。『逆説』1221回にこの説が要約されているので、引用させていただく。

「古代において天皇一代ごとに首都が移転していたのは、死をケガレとする神道の信仰に基づく行為であった。ところが、それではいつまでたっても持続的な投資ができず国が発展しないと考えた持統天皇は、一部仏教の考え方を取り入れ遺体を火葬にすることによってケガレは除去されたと考えるように命じた。そして首都自体も中国式に改めた。その大英断によって最終的に日本の首都は固定の方向に向かい、最終的に奈良の都でそれが確定された」

とのことである。

この説の問題点は既に『週刊ポスト』4月19日号で指摘したが、その骨子を改めて示そう。ケガレ移転説は昔、歴史学界でも唱えられたことがあった。しかし考古学の発掘調査の進展の結果、持統天皇が即位する以前、飛鳥時代の後半には大王(天皇)の正宮が飛鳥京に固定化していたことが明らかになった。

井沢氏は694年の持統天皇による藤原京遷都をもって日本が「首都移転時代」から「首都固定時代」に移行したと論じている。けれども近年の考古学の成果に従えば、飛鳥時代後半は既に「首都固定時代」だったということになるのだ。

もともとケガレ移転説は、都がコロコロ移転しているという事実認識を前提に、この不可思議な現象を説明するために登場した。もし天皇の代替わりごとに既存の王宮を放棄して、別の場所でインフラの整備など街作りを一からやり直していたとしたら、著しく不合理であり、政治的・経済的な説明が困難だからである。

だが当該期に過去の王宮の増改築・再利用などが多く見られることが判明した以上、ケガレ移転説のような無理な説明はもはや必要ない。もちろん難波遷都・大津遷都などに見られるように遷宮が消滅したわけではないが、政治的な要因で説明可能である。