「俗流歴史本」の何が問題か、歴史学者・呉座勇一が語る

井沢元彦氏の批判に答えて
呉座 勇一 プロフィール

井沢氏は、織田信長が法華宗を弾圧するために意図的に浄土宗を勝利させたという「歴史学界の通説」(以下、井沢氏に倣って「八百長説」と略記)を批判し、安土宗論が八百長ではないことを明らかにしたのは自分であると誇っている。

しかし井沢氏の「功績」とやらは、「八百長説」を批判した浄土宗の僧侶だった林彦明の論文(1933年)を『逆説』の中で紹介した、という点に留まる。仮に林説が正しかったとしても、功績があるのは提唱者の林であり、紹介者の井沢氏ではない。

井沢説(林説)は、『信長公記』の記述が安土宗論の真実を伝えているという認識が前提になっている。つまり、『信長公記』を読む限り、浄土宗側が法華宗側を論破しているように見える、というだけの話である。一方で、『安土問答実録』など法華宗側の史料では、信長が意図的に浄土宗側を勝たせたと記されており、これが「八百長説」の発端になっている。

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井沢氏は逆説1227回で、二次史料である『安土問答実録』よりも、一次史料である太田牛一の『信長公記』やルイス・フロイスの『日本史』の方が信頼できる、と反論している。だが『信長公記』や『日本史』は一次史料ではない

歴史学における一次史料というのは、事件を見聞した当事者が事件発生とほぼ同時に作成した史料のことである。安土宗論の場合、たとえば山科言経の日記『言経卿記(ときつねきょうき)』天正七年五月二十七日条・六月二日条、(天正七年)五月二十八日織田信長朱印状(『知恩院文書』)などがこれに当たる。

 

他方で『信長公記』の著者である太田牛一は織田信長に仕えており、信長の生前から備忘録をつけていたと推測されているが(現存せず)、備忘録などを元に『信長公記』を執筆し始めたのは豊臣秀吉が天下人になって以降と考えられるので、『信長公記』は後に編纂された二次史料である。フロイスの『日本史』も同様に二次史料である。

このような基本的知識すら持っていない人と史料解釈をめぐる論争をしても不毛であるが、そう言ってもいられない。井沢説の根本的な問題点を一つだけ掲げておく。当時の法華宗が信者獲得のために積極的に他宗に宗論を仕掛けていたこと、他宗に対して攻撃的な法華宗の布教姿勢を織田信長が問題視していたことは、井沢氏も『逆説の日本史10 戦国覇王編』(小学館)で認めている。

安土宗論を行えば、宗論を得意とする法華宗が勝つ確率の方が高く、法華宗が勝つことは信長にとって不都合である。にもかかわらず、なぜ信長は宗論の開催を認め、あまつさえ甥の津田信澄を名代として派遣するなど、積極的に関与したのか。