ヴェーバーの業績は鬱病の賜物
本日は、社会学的鬱と社会学的想像力についての話をいたします。
私は3月に刊行した『社会学史』の中で、マックス・ヴェーバーを論じました。ヴェーバーは重い鬱病になったということが、実は、たまたま運悪く病気になっちゃいましたというようなことではなく、彼の社会学者としての精神の持ち方と関係があるということを書いています。
実は、ヴェーバーの主要な研究は、鬱が重いときに書かれています。鬱病にかかる前も、ヴェーバーはドイツで若き天才として目立ってはいたけれど、たぶん、彼が鬱病になる前の業績だけだったら、100年以上も彼の偉業が語られることはなかったでしょう。
ですから、ヴェーバーという人は鬱の頃から偉大な社会学者になっているわけです。その社会学的鬱と社会学的想像力というお話を、今日はしようと思います。
2種類の学問
まず、その前段から話していきます。ある学問の歴史を知るということが、その学問を理解するために不可欠な学問と、歴史は歴史、その学問は学問と別になるタイプと、2種類の学問があるということを『社会学史』の最初で書きました。
歴史とその学問そのものが典型的に一体化しているのは哲学です。哲学史と哲学は、(分析哲学はちょっと違いますが)ほぼ同じになります。
それに対して、たとえば物理学。最先端の物理学を研究するのに、ニュートンの『プリンピキア』も読んでおかなければ困る、ということにはならないわけです。
社会学は、かなりの部分で哲学と同じです。社会学をやるには社会学史を知らないといけない。まともな社会学者はそれぞれ自分の研究分野を中心においた、自分なりの学説史を持っているはずです。
ですから、社会学を勉強するのに社会学史を知らなければいけない。ただそうではない学問もあるので、どういうタイプの学問が歴史と一体化していて、どういうものが歴史と学問が別になるかという、そのイメージを先に言っておきます。
例えば、常識が固い岩盤の大地のように感じる学問があるわけです。そして、その上に新しい知識という建物を建てていく。そうすると新しい学問をする時には、どこまで来たのかを知っていればいい。こういうのが、歴史と関係なしにできるタイプの学問です。
それに対して、上に物を重ねていけば、確実な知識が出てくるとは思えないタイプの学問。常識が水のように不安定で、常識に対する懐疑というものを含んでいる。それを中心に考えていく学問があります。
物理学では、物があるということは当然です。しかし哲学になると、「そもそも物が存在してるってどういうことなんだろう?」ということから考え始めるわけです。物が存在していることをベースにどんどん作っていく物理学と、何かの存在自体が疑わしいと考えていく哲学。それぞれの学問の違いがあります。
社会学も、われわれの常識そのものをカッコに入れながら考えていくことが必要です。たとえば今、皆さんと私が一緒にいて、話が通じるだとか、いろんな人が世界に存在するってどういうことだろうとか、そういうところから疑問に思って考えていくということになります。
すべての人間はフォークソシオロジスト
『社会学史』は、「社会学は近代社会の自己意識である」ということからスタートしています。近代社会というのは、自分は何者であるかとか、自分はどこから来たとか、自分はどこへ向かっているのかということを絶えず反省するタイプの社会です。
その社会の中の自己反省の一部を学問として分離すると、社会科学や社会学になっていくという話を書きました。
それはその通りなのですが、社会学は専門的な学問であると同時に、一方で、すべての人間は社会学者なのです。それはどういうことか。