『いだてん』は、日本男子マラソン界の「無念の起源」を描いた傑作だ

視聴率一桁はあまりに勿体ない!
堀井 憲一郎 プロフィール

彼が負ける姿が想像できなかった。たぶん本人もそうおもってたのではないだろうか。

1980年のモスクワオリンピックのマラソンでは、誰がどう見たって瀬古利彦が金メダルを取るだろう、余裕で取るに違いないと信じていた。

円谷幸吉の姿に感じた、悲痛な思い

オリンピックのマラソンを初めてみたのは1964年の東京大会である。6歳だった。

トップで帰ってきたのはエチオピアのアベベ選手。しばらくして彼に続いて国立競技場に二番目に戻ってきたのは日本の円谷幸吉選手だった。しかし円谷は競技場内でイギリスのヒートリー選手に抜かれてしまう。当時6歳ではあったが、私はこのシーンを(テレビで見ていたのだが)鮮明に覚えている。

日本選手が2位で入ってきたのに抜かれてしまったのがあまりに哀しく、まだ少しあるのだから抜き返して2位に戻ることはできないのだろうか、と胸を締め付けられるような気持ちで見ていた。その悲痛な気分をよく覚えている。円谷幸吉といえば、このときの顔(そんなに鮮明に見えてなかったはずなのだが、でも淡々としながらも悔しそうだった記憶になっている)が忘れられない。

1968年のメキシコオリンピックのマラソンでは、君原健二が2位に入った。彼は途中まではかなり後方にいたのだが、途中からどんどん前に出て2位に入ったのだ(それはあとになって知った)。

 

このマラソンは日本では月曜の朝の時間帯で、この日、1968年10月21日月曜、小学4年だった私はものすごく寝坊してしまい、本来なら小学校へ着いてるような時間に起きてきて(たぶん8時30分くらいだったとおもう、遠距離通学だったのでうちから小学校まで45分くらいかかる)、大変な遅刻をしたというショックで茫然と用意しているなか、マラソン中継をぼんやる見ていたのだ。

君原健二がクビをふりながら力を出し切ったような気配で2位でゴールしたシーンをぼんやりと見ていた。1時間目まるまる遅刻しそうな寝坊したことで世界が終わったようなショックを受けていたので、日本人の銀メダルシーンに感銘を受けることなく、かなりぼんやりしていたのだ。まあ10歳児なんでしかたがない。

のち、大学で同い年の子とメキシコオリンピック君原の話になったとき、そいつは家でマラソンの前半を見ていて、でも学校に向かう時間になったので、友だちの家に寄っては、君原はいま何位になったかと聞いて、それを2,3人の家で繰り返して、学校に着いたころに君原が2位になったことを知ったという。なんか劇的だったけど、でもすごく地味でもあった。そういう素敵な選手でした。君原健二。

君原は次の1972年のミュンヘンでも5位に入賞した。このへんがこの人のかっこいいところですね。