『うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』はプロ棋士の先崎学九段が、1年にわたるうつ病との闘病を記した優れた当事者手記だ。
先崎氏のアドバイザーとして登場する実兄の精神科医が本書では重要な役割を果たしている。本書の意義は兄の語る以下の言葉に集約されている。
〈「学が経験したことをそのまま書けばいい、本物のうつ病のことをきちんと書いた本というのは実は少ないんだ。うつっぽい、とか軽いうつの人が書いたものは多い。でも本物のうつ病というのは、まったく違うものなんだ。ごっちゃになっている。うつ病は辛い病気だが死ななければ必ず治るんだ」〉
評者の高校時代の友人、外務省時代の同僚でもうつ病を発症し苦しんだ人がいる。
特に深刻なのが、死への誘惑だ。先崎氏は死への誘惑についてこう記す。
〈駅へ行く。そこで私は電車に乗るのが無性に怖くなった。思えば前回の対局以来、電車に乗っていなかった。
正確にいうと、電車に乗るのが怖いのではなく、ホームに立つのが怖かったのだ。なにせ毎日何十回も電車に飛び込むイメージが頭の中を駆け巡っているのである。いや、飛び込むというより、自然に吸い込まれるというのが正しいかもしれない。死に向かって一歩を踏み出すハードルが極端に低いのだ〉
精神科医にとっても、うつ病患者の自殺防止が最重要課題とのことだ。
〈「自殺」ということばをなにげなく出すと、兄の顔がピクッと反応するのだ。会話の中になにげなく挟んだだけでも顔つきが変わる。そのことを問うと、兄はしみじみと語りだした。
「うつ病患者というのは、本当に簡単に死んでしまうんだ。それはよくわかるだろ」
私は七月にホームに上がるのが恐ろしかったことを思い出しゾッとした。うつ病とは、辛いから死にたくなるというのもたしかだが、症状そのものが死にたくなるという病気なのである。そんなことをいうと、兄は吐き出すように続けた。
「うつ病は必ず治る病気なんだ。必ず治る。人間は不思議なことに誰でもうつ病になるけど、不思議なことにそれを治す自然治癒力を誰でも持っている。だから、絶対に自殺だけはいけない。死んでしまったらすべて終わりなんだ。だいたい残された家族がどんなに辛い思いをするか」(中略)
「修羅場をくぐったまともな精神科医というのは、自殺ということばを聞いただけでも身の毛が逆立つものなんだ。究極的にいえば、精神科医というのは患者を自殺させないというためだけにいるんだ」〉