私が一橋大学の教員を辞めた理由〜国立大に翻弄された苦しい日々

ある大学教授の告白
河野 真太郎 プロフィール

このような意味での市場化は大いに結構、と思われる方も多いだろう。非効率であった大学をより効率的に運営し、研究や教育成果を世の中により多く、より良く還元する方法として。

だがそれは、二つの意味で幻想である。大学は効率化などしていない。

 

「効率化」の大失敗

一つには、現代の新自由主義、つまり「より少ない官僚制度」を原理とする社会は、逆説的にも、「より多くの官僚制度」を必要としてしまうのだ。大学であれなんであれ、これまで競争原理のなかったところに競争原理を持ちこむためには、巨大な評価・査定の制度とプロセスを必要とする。

デヴィッド・グレーバーが『官僚制のユートピア』で述べているように、新自由主義時代はより多くのペーパーワークの時代になってしまった。官僚制度を減らすための原理が巨大な官僚制度を生み出している

実際、現在の大学教員は外部資金や認証を得たり自己点検評価をしたりするためのペーパーワークに溺れて、研究どころではなくなっている。さながら大学は、その組織自体を維持するためのペーパーワークや会議をすることを目的とした組織、という、「シジフォスの労働(労働をさせられた後に、その成果も過程も否定される苦役)」を地で行くような笑えない様相を呈している。大学は、それ自体を維持するための官僚組織になってしまった。

二つ目は、雇用の崩壊である。定常的な経費が削減される中、大学は、教員であれ事務職員であれ、正規雇用を維持する余裕を失っている。それはとりわけ、一橋大学のような文系の大学では顕著になる。文系大学は人が資本である。たとえば一橋は予算の65%を人件費が占めている。予算削減は雇用を直撃するのだ。

とはいえ、今働いている人間が解雇されるわけではない。人が辞めた際にポストがなくなったり、臨時雇用で補充したり、ということが行われる。教員の雇用が流動化し不安定になると、じっくりと腰を据えた研究がしにくくなる。

その結果は例えば、2015年の、国立大学協会政策研究所所長の豊田長康氏による研究レポート「運営費交付金削減による国立大学への影響・評価に関する研究」が衝撃的な形で示している。それによれば2002年あたり以降、日本の論文数は停滞・減少し、先進国中でも最も低水準に落ち込んでいる

例えば、2013年の生産人口あたりの論文数は、日本は31位で「東欧諸国グループに属する」という刺激的な言葉が見える。豊田氏がその要因として挙げるのは、フルタイム研究者の数、公的研究資金の額の減少であり、日本はそこで比較された先進国中で、いずれについても最低水準となっている。これは、明白に、ここまで述べたような改革のみごとな「成果」である。