私が一橋大学の教員を辞めた理由〜国立大に翻弄された苦しい日々

ある大学教授の告白
河野 真太郎 プロフィール

私のような教員は、この大綱化から生まれたと言ってもよい。私の専門はイギリス文学・文化であるが、商学部に所属しつつ、大学で基本的に教えることが期待されたのは教養の英語だった。

とはいえ、大綱化によって、それまで存在しなかった教養対専門の分断・対立が生まれたという話ではない。その対立はずっとあった。大綱化のポイントは、教養部が解体され、人事権をはじめとする力を失っていき、さらに法人化を経て、現在教養教員のポストが奪い去られつつあるということだ。

ここで強調したいのは、教養教育が消え去ろうとしていることだけではない。問題はその消え去り方だ。現在にそのような影を落としている大綱化が、英語ではderegulation(規制緩和)であること、つまり同時代に日本全体で進んでおり、今も終わっていない新自由主義改革の一部だったことである。それが前述した座長の発言の背後に隠れている事情の一部だ。だが、物語はまだ続く。

 

大学の二つの市場化

私が言いたいのは、90年代の大綱化が、2000年代の国立大学法人化、そして2015年の国立大学法人法改正と文部科学大臣通知へとまっすぐにつながっているということだ。そしてそれらをつなぐキーワードが新自由主義である。

私が「できれば辞めて欲しい」というメッセージを受け取ることになった事情は、ここまで述べた大綱化に、2000年代以降の大学の新自由主義化、もしくはそこに「緊縮」が加えられた合わせ技によるところが大きい。

大学の新自由主義化とは、平たく言ってしまえば、これまで国が丸抱えで運営していた国立大学の業務を市場化することである。市場化するとは大きく二つのことを意味する。それは大学の世界を「市場のように」運営すること。つまり競争原理や成果主義を持ちこみ、運営や意志決定プロセスに一般企業的な原理を持ちこむこと

そしてもう一つの意味は、大学に「民間」の参入を促すこと、もしくは言い方を変えると大学業務を民間に切り売りすることである(例えば大学入学共通試験の英語に民間検定試験が参入することや、「実務家教員」の雇用の強制を考えればよい)。

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ここで問題にしたいのは、一つ目の意味での市場化である。国は、大学に定常的に交付していた運営費交付金を原則として年1%ずつ削減し、それに代えて「競争的資金」を獲得することを推奨したり、中期計画を策定してその達成度を査定したりといったことによって、それを推し進めようとしてきた。

後者は要するに、「改革」をより多く達成した大学に高い評価と資金を与えようということである。その「改革」の中にはいわゆる「ガバナンス改革」がある。2015年の国立大学法人法の改正は、教授会の議決権を大幅に削減するなどして、学長の権限を拡大するという「ガバナンス改革」(その内実は、上意下達以外の何物でもない)を進めたという意味で、決定的に重要だった。