講談社の「天皇」野間清治の跡取りをめぐる、家族の苦悩

大衆は神である(54)
魚住 昭 プロフィール

天稟としか言いようがない

昭和2年春、寅雄は名門の府立第四中学(現・東京都立戸山高等学校)に入った。しかし、秀才ぞろいの校風が肌に合わなかったのか、1年の2学期に私立巣鴨中学に転校した。巣鴨中は剣道が盛んだった。

このころから寅雄は剣道に熱中し、その才能を開花させていく。昭和剣道界で「剣聖」とうたわれた講談社の剣道師範・持田盛二(もりじ)は、当時の寅雄についてこう語っている。

〈(昭和2年ごろ)初めて寅雄さんと稽古をお願いしました。その時分、十四、五歳位だったと思いますが、仲々この坊ちゃん、天稟(てんぴん・生まれつき授かった才能)な子だな――と思いました。利発な、頭の良い、決して無理なことはせず、(略)鏡を見ては、自分から悪いところを直し、云われなくても自分から先々と直すという心がけの良いお子さんでした。稽古だって、あの位立派な稽古をする人はおりませんでした。(略)先天的なものがないと、あれだけ利発な人で、器用な人でも、あれだけ使えることは出来ませんね。やはり天分も多分にありましょうね〉(『巣園剣友・森寅雄追悼号』)

従兄の恒は清治の指示に素直に従い、地道な練習をこつこつ積み重ねるタイプ。いわば努力型である。それに対し寅雄の剣は、天稟としか言いようがないほど迅く、正確で、流麗だった。

 

1人で36人を

寅雄が16歳のとき、野間道場の面々が千葉県銚子の格心館道場で試合をしたことがある。野間道場側は持田を大将にメンバー六人、恒、寅雄も加わり、先鋒は寅雄だった。

格心館側は総勢36人で、そのなかには五段、六段、七段の高段者も含まれていた。1本勝負の勝ち抜き戦である。

ところが、野間道場の先鋒寅雄が最初に出て、相手方の先鋒から大将までズラリ36人をきれいに打ちこんでしまった。これには両軍ともびっくりし、言葉もないくらいだった。

野間道場側では、寅雄より段の高い者ばかりがまだ5人も残っているのに、寅雄1人の活躍によって試合は済んでしまった。格心館側でも、ただ1人の弱冠16歳の少年に総なめにされてしまったのだから、ただ啞然とするばかり、道場の歴史にもないことだと囁き合った2

註① 早瀬利之『タイガー・モリと呼ばれた男 幻の剣士・森寅雄の生涯』(スキージャーナル刊、一九九一年)より。
註② 笛木悌治『私の見た野間清治 講談社創始者・その人と語録』(富士見書房刊、一九七九年)より。