重力波観測に匹敵、超精密キログラム定義改定の舞台裏

「物理法則」による新定義とは?後編
山根 一眞 プロフィール

最重要機密の軍事施設まで利用

しかし、シリコンには3つの同位体がある。

28Si、29Si、30Si

「半導体産業で製造されている高純度のシリコンでも、29Si、30Siが数パーセント含まれています。そういうシリコンを使ったのでは、得られる精度は1億分の30が限界です。キログラム原器の質量のゆらぎが1億分の5とわかったので、それを超える精度でなければ意味がないんです」(藤井さん)

どうすればよいか。話は簡単だ。半導体産業で使われている高純度のシリコンから、29Siと30Siを徹底除去し、28Siを濃縮すればいい。だが、それには大きなコストがかかるため、「15年前に日本とドイツが3分の1ずつ、他国が3分の1を負担する協定を交わしたんです」(藤井さん)

高純度のシリコンをガス状にして遠心分離機にかけ、28Siを濃縮する。その技術があり、引き受けてくれたのがロシアだった。

「その遠心分離機は、サンクトペテルブルク郊外の、かつては地図に載っていなかった秘密軍事都市にありました。旧ソ連時代に、水爆の起爆剤であるリチウムの濃縮を行っていた遠心分離機です」(藤井さん)

【写真・図】ロシアの遠心分離器
  シリコンの濃縮を行ったロシアの遠心分離装置。貴重な写真だ 写真提供:藤井賢一(拡大画像はこちら

28kgのシリコンを毎分2~3万回転で遠心分離し、それを次の遠心分離機でさらに濃縮……という操作を何十段も続けていくのだ。アメリカが北朝鮮やイランの核開発で神経をピリピリさせているのが、この雛壇式の遠心分離装置だ。

かつて、日本の原子力関係者から、その雛壇式の遠心分離装置についてチラっと聞いたことがあるが、「そのことを口にしてもいけないし家族にも話したことはない。もちろん写真が出るなんてとんでもない!」と語っていたことを思い出した。

新キログラム定義への道は、そういうとんでもない「道」を経てきたのだ。

29Si、30Siが混じった高純度のシリコンから、28Siだけを99.994%に濃縮するのには2年かかりました」(藤井さん)

【図】シリコン精製
  3種の同位体が含まれる自然界のシリコンから28Siを99.994 %まで濃縮した 図版提供:藤井賢一(拡大画像はこちら

濃縮したシリコンの同位体は、29Siは5%から0.005 %に、30Siは3%から0.001%にまで除去、92%だった28Siは99.994%まで濃縮できた。28Siは白っぽい粉状だが、それをさらに化学精製し、多結晶化の反応などを経たことで、5kgの同位体濃縮シリコン結晶を得ることができたのだ。

そのお値段は、約5億円! かつ、5kgもの28Si結晶が製造されたのは史上初。これを使えば超高性能の半導体が作れそうだ。そんな話も出たというが、コストを考えると実現は無理だろう。

各国で磨かれ誕生した「世界で最も丸い球」

このお宝は、ロシアからドイツの結晶成長研究所(IKZ)にバトンタッチされた。ドイツでは、高周波による誘導加熱(2000~3000℃)で溶けたシリコンから、単結晶のシリコンを引き上げたのだ。それは半導体産業で使われている技術、FZ法(Floating Zone法)だが、何度かやり直したようだ。

【写真】引き上げられたシリコン結晶
  引き上げたシリコンの単結晶(写真提供・藤井賢一)

「国際アボガドロプロジェクト」がこのシリコン単結晶を5kg製造したのは、シリコン球の原子数勘定の再現性の確認を1kgの球、2個で行うためだった。

ドイツで引き上げた単結晶のシリコンはくびれのあるグラマラスな形をしているが、これはできるだけ少ない高価な材料から1kgの真球を2個切り出すためだ。

このシリコンの単結晶は、次にオーストラリアに運ばれ、政府機関である精密光学研究所(Australian Center for Precision Optics)で研磨が行われた。精密光学研究所はNASAにも提供している人工衛星搭載カメラ用の超精密レンズの高度な研磨技術で知られ、凄腕の研磨職人がいる。そこに、シリコン球の最終加工がまかされたのだ。

自動研磨マシンで研磨を続け、最終的に人の手で仕上げるまで約半年がかかったが、その仕上がり精度は直径約94mmのシリコン球を地球の大きさにしても凸凹が10m以内という見事なものだった。

「世界で最も丸い球」の誕生だ。

こうして「国際アボガドロプロジェクト」は、人類が手にしたことがない同位体的にも超高純度な超精密シリコン球を2個手にした(1個約1億円という)。