視聴率20%超!広瀬すず『なつぞら』が「時代風景を描かない」意味

これは新しい朝ドラだ
堀井 憲一郎 プロフィール

少年少女の「内的世界」を描く

ナレーションはもちろん、登場人物のセリフでも説明はしない。たしかに昭和31年の人々が、「社長、太陽族といいますと、あの慎太郎刈りにアロハシャツでサングラスをかけた、いまどきの不良たちのことですね」なんて言うはずがないからね。そういう説明を避けている。

最近ではあまりないパターンである。

もちろんよく見れば、昭和30年代らしい風物が描かれている。

会社の備品も、いろんな持ち物も、登場人物の服装も(主人公なつの服装はちょっと特殊な展開を見せているがそれも含めて)、昭和30年代らしい。ただ、「30年代らしい」止まりである。ピンポイントでどの年かがわかるようなことはない。

“テレビ”が出てきていない。

昭和31年といえば、まだまだふつうの家庭に置かれる状況ではなかったが、街のどこかに(少なくとも電機店の店頭には)置かれていて注目される存在だったはずだ。世間が注目している新しい機器である。でも触れてない。

それを言うと、ラジオも新聞も出てきていない。

ニュースが流れない。終戦のときの玉音放送も流れなかったが(当時8歳だからそれはべつにかまわないが)、その後の世の動きと主人公は何も連動していない。ある意味、社会世相や時代風景を遮断している。

少年少女の内的世界そのままである。社会と自分の関係はほぼ意識せず、自分とそのまわりの関係のなかだけに生きている。たしかに少年少女にとって世界はそういうものである。

いまのところ世界は狭く見せている。

こちらは、主人公に寄り添って見るしかない。まわりの人間が自分のことをどうおもってるかが世界のすべてになってくる。その視点を徹底しているところが、ある意味、すごい。

 

考えてみれば、朝ドラの世俗の描写はだいたい「生活の苦しさ、不便さ」表現のために使われていたようにおもう。

豊かでない世の中を生きている姿を描くため、その貧乏の描写のために「時代と世俗」が描かれていた。「昭和は貧しかった」という定型化である。

それはそれで見ているほうは安心するのであるが(いまはそんなに貧しくないと確認もできるし)、でもパターン化してたのもたしかである。

100作目はそこから抜けだそうとしているかのようである。