私が目撃した「天安門事件」あの日、中国の若者に訊ねられたこと

「中国は、日本みたいになれるかな…」
青山 潤三 プロフィール

筆者は88年末に一度帰国し、翌春からは成都の大学に移ろうと考えた。手続きをすると、これまたあっさり4月から転校できることになった。

成都の大学は日本人の留学生も多く、除け者感は重慶よりもさらに強まったが(中国人よりも日本人のほうが異質な人間には冷たいのだ)、蝶の研究をする上ではやることがたっぷりあり、苦にはならなかった。チベット高原東縁と四川盆地が接する成都西郊の都江堰や青城山に、蝶や蝉を調べるため、ほとんど毎日のように往復し続けた。

寮に戻ると、日本人の留学生たちは毎日、刻々と移り変わる北京の情勢や政府の動向を分析し、今か今かと「事が起こる」のを待っているようだった。

春になり、新学期に入っても、授業は始まる気配がない。4月には学生たちが決起集会を開くようになった。5月の下旬には、学内は異様な雰囲気になっていた。

 

始まった「当局との衝突」

そして6月。北京から遠く千数百㎞離れた成都でも、それは起こった。

筆者はその日、成都の市街地中心部にある、外国人が多く宿泊する老舗ホテル「錦江賓館」屋上のバーで過ごしていた。

今思えば、なぜ6月4日にそこにいたのか記憶が定かでない。ただ当時、しょっちゅうそのバーへ足を運んでいたのだ。その日も昼前から夕方まで、そのバーから地上を見下ろしていた。何か起きるかもしれない、という予感があったような気もする。

向かいのもう一つの高級ホテル「岷山飯店」との間に挟まれたメインストリート「人民南路2段」に、人が集まっていた。始めのうちはパラパラという感じだったが、正午を過ぎた頃から、まるで砂糖に群がる蟻のように急速に増えていった。群衆の本拠地は少し離れた広場だったのかもしれなかった。

やがて、幅の広い「人民南路2段」を真っ黒に埋め尽くすほどに膨れあがった群衆は、対峙する当局の治安部隊に投石を始めた。

治安部隊がいつからそこに展開していたのかは記憶が曖昧だが、バーを離れる少し前の15時頃から、「濱江西路・東路」と「人民南路2段」の交差点辺りにいた部隊が、人々と衝突し始めたのをはっきり覚えている。筆者が目撃した時点では、戦車の介入はなかった。

この時、筆者と一緒に下を見下ろしているアメリカ人男性がいた。おそらくだがこの人物は、AFPが今年6月2日に配信した下記の記事に登場する、人類学者のカール・ハッタラー氏だ。たしか彼とは、挨拶程度の言葉を交わしただけだったが、この記事を読んで驚いた。

夕方、暗くなる前にホテルを出て、裏通りからタクシーで大学に戻った。宿舎に戻ると、なぜか留学生たちの姿が一人も見当たらなかった。暴動に参加しているのか、現場を見物に行って戻って来ないのか、息をひそめて自室に籠っているのか。いずれにせよ、外がどんな騒ぎになろうとも、留学生宿舎の中は安全地帯なのだ。

夜中、守衛さんが筆者の部屋にやってきた。「日本のテレビ局から宿舎に電話があった。他に誰も見当たらないから、アンタが出てくれ」。日本の学生がこの大学にいるとの情報を、どうやってか入手したのだろう。昼間に見た情景をかいつまんで伝えたことを覚えている。

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