世界的ダンサーから経営者に。バレエとビジネス共に成功させた20年

強い反発があっても実現したかったこと
熊川 哲也

「習い事」からプロの育成へ

ここ二十年で日本のバレエ界は大きく様変わりした。一九九七年に新国立劇場がオープンし、九九年にKバレエカンパニーがスタートした。それと並行して他のバレエ団の活動も活発になって、競い合いながらともに歩んできた。最大の変化はダンサーたちが「生徒」ではなくなってきた、ということだろう。

僕がイギリスから帰国した九〇年代、日本のバレエ界はいわば「習い事」の延長線上で、公演はバレエ教室の発表会が多くを占めていた。発表会は出演する生徒たちが参加費を払うことで成り立ち、主役の生徒はより多く負担するのが当たり前という世界だった。

高額のトウシューズはすべて自分持ちで、一度の稽古で履きつぶすこともある。大きな負担になるため、親がかりのダンサーも少なからずいた。公演の際はメンバーにチケットノルマが課せられ、観客のほとんどは関係者か出演者の親類と知人である。要するに興行的には成立しなくても、ダンサーたちが犠牲になって公演を支える状況が常態化していた。

ダンサーが「生徒」の延長なので、いつまで経っても師弟関係というくびきから離れて自分の主張ができない。一人の自立した表現者として舞台に立てないのだ。舞台だけでは到底生活できないため、バレエ教室で教えたり、発表会にゲスト出演したりして生計をやりくりする。これではプロ意識が育まれるはずはなかった。

Kバレエは旧態依然としていた日本のバレエ環境を真正面から崩す方法でカンパニーの体制を構築してきた。Kバレエを立ち上げたとき、「日本のバレエ環境を変えたい」「プロのダンサーを育てたい」と語っていたのは、Kバレエがその点で既成のバレエ組織とは一線を画したカンパニーであることをアピールするためでもあった。

国から助成金を受けることなく、民間の企業や劇場と提携し、チケットセールスをシビアに計算した。その結果、年間の公演回数は五十回以上、観客動員数は延べ約十万人という、それまでの日本のバレエ界にはなかった規模の活動をコンスタントに続けることができた。

 

そうした経営基盤があってこそ、ランクに応じた団員の給与制やトウシューズの支給、あるいは生ピアノ演奏や専属オーケストラなどが実現できている。公演回数が多いことで、若いダンサーたちもある程度、生活が保証される。またプロとしての場数を経験できる環境によって、ダンサーとして著しく成長した。

日本のバレエ界は僕一人が変えるものでも、変えられるものでもない。ただ、Kバレエの存在によってバレエ界が変わらざるを得なかった側面はあると思う。Kバレエの実践は日本のバレエ界の非常識であり、その非常識がバレエ界の常識を揺るがしたと言えるのではないか。

もちろん、芸術を追求し、プロのカンパニーとして理想を追い求めて活動しているバレエ団もあったことは確かだが、一方で「Kバレエがトウシューズを支給するから、われわれも支給せざるを得なくなった」という声があったのも事実である。

ダンサーたちは強固な師弟関係から離れて自分の行き場所を自分で決め、バレエ団の提示する条件に敏感に反応できるようになった。これまでの「生徒」ではなく、プロ意識を持つようになってきたのである。