丸山ゴンザレス・プロレスの祭典「レッスルマニア」観戦記

これが世界トップクラスのエンタメだ!
丸山 ゴンザレス プロフィール

ヒーロー、カリスマ、スーパースター

前回の記事でまとめたONE Championshipの提唱するヒーロー像とあわせて、スーパースターについて最後に掘り下げておきたい。

格闘技に限らず、テレビ放送が絡むものは演出も展開も面白くて刺激的なものでなければならない。面白くないと視聴者がチャンネルを変えてしまうからだ。だからといってショー的な要素だけが強くなれば、コアなファンは一気に離れてしまう。ある意味リスクが大きいのである。

 

この現象を読み解く際、アメリカンプロレスの最高峰WWEを外して語ることはできないだろう。WWEは全米で2~300万人の視聴者がいる。

それだけの人々は、いったい何に熱中してテレビを見ているのか。

強い男を見たい。強い女も見たい。しかし、それは決して「世界最強」を見たいからではない。選手と運営と観客が一体になって見せてくれる世界最高のエンターテインメントを楽しんでいるのだ。これは会場でも感じたし、会場の中継を見ていた人たちも感じていたことだろう。

日本でプロレスや格闘技の話をすると、どうしても「最強こそが正義」になりがちだ。むしろ「なぜ最強でないものを世界の人々が受け入れているのだろうか」と思う格闘技ファンもいるだろうが、そこには前提のズレが生じているのだ。

WWEに熱狂するプロレスファンにとって、レスラーが格闘技的な意味での最強かどうかは興味の対象ではないはずで、なによりも楽しいショーであることが大事なのだ。

プロレスをエンターテインメントとして受け入れている土壌、楽しもうとする姿勢。それは日米のプロレスの成立過程が大きく関係している。

日本のプロレスは、相撲からはじまった、と言われる。現在のプロレスの系譜が、力道山を起点にはじまっているからだ(異論もあるかもしれないが、おおよそここに落ち着くはずだ)。

力道山は関脇までいった力士である。彼の思想がどうこうではなく、元力士のスター選手なので、観客の側もスポーツとして見慣れている相撲と重ねたことだろう。このような成り立ちは、現在にも影響している。

「ガチ以外は認めない」「八百長なんてもってのほか」という立ち位置で、「神聖な勝負事」として見ているひともいる。会場に足を運ぶようなプロレスファンではなく、格闘技ファンだったりプロレス周辺にいる人達にこそ、こういう感覚が根強いのだ。

とはいえ、これが悪い見方だとは思わない。それぞれの見方があるし、観客は好きなように見ればいいからだ。

一方で、アメリカではプロレスはサーカスや見世物のひとつ、カーニバルレスリングとして発展してきた。観客は楽しめて盛り上がりさえすればそれでいいのだ。それは今に始まったことではなく、相撲とは違う流れをもち、歴史的な蓄積もある。

どれぐらい古いかというと、1800年代初頭に遡る。日本なら江戸時代である。アメリカのプロレスはその頃まで遡るし、意外な人がプロレスラーだったりもする。

「リンカーンだってプロレスラーだったんだ」

言わずと知れた第16代アメリカ大統領「解放奴隷の父」エイブラハム・リンカーンのことだ。件のプロレス通の先輩から教えられて調べてみたら、彼の経歴の中にはレスラーだった時期があった。

1830年頃、22歳のリンカーンは実家から独立し、生きていくために様々な仕事をしていた。そのひとつに、懸賞金プロレスへの出場があった。現在のアマレスのような洗練されたものではなく、打撃、関節技、絞め技が認められる総合格闘技のようなものであった。当時のリンカーンの試合結果は新聞に掲載されたともいわれているので、相応の実力者だったのかもしれない。ちなみに身長は193センチあったそうだ。

相撲とサーカスの論理はかなり際どい分析なのだが、それでも同じプロレスでも見る側のマインドに違いがあることはわかっていただけたのではないかと思う。

だから私はプロレスを愛している

誤解してほしくないのは、プロレスラーは真剣に戦っているし、試合に臨むためにハードなトレーニングを重ねている点は格闘家と共通している。際立った特色があるとしたらプロレスラーは観客がいないところで試合をしても意味がないということ。どちらが勝敗をつけようと競っているわけではないからだ。

プロレスに携わる人々が求めているのは観客の盛り上がりと満足である。それはアクション映画や舞台、サーカスの出し物など、アトラクションを観終わった時の満足と同種のものですらあると思うのだ。

安定して物語を紡いでいくためには、スーパースターたちが必要だ。カリスマでもなく、ヒーローでもなく、スーパースターなのだ。

リングの上で、相手の技を受ける。派手な技を繰り出す。さまざまな動きが重なり試合のなかで物語が紡がれていく。ここに選手や団体の歴史が加わり、物語の厚みが増していく。プロレスほど知識がものをいう分野はない。深く知れば知るだけ楽しむことができる。だから私はプロレスに小説や文学的な側面があるのだと思う。試合を見ることは、小説を読むのと似ているように思う。

ただし、小説と違うところもある。それは素人でも楽しめることだ。少年時代、年長者から「この小説を読むにはまだ早い」と注意されることがあった。ある程度の素地がないと理解できなかったり、共感できなかったり、本質に届かないこともあるからだ。経験者は親切に教えてくれたということだ。プロレスにはそれがない。好きか嫌いか、ハマるかハマらないかのどちらかしかないのだ。

前回紹介したONEはヒーローをつくるのに対して、WWEはスーパースターを生み出す。両者の違いは、イベントの根幹の部分にある。誰がどう言おうとも、現在のアメリカンプロレスはショーで、ONEはスポーツ・エンターテインメントなのだ。それは揺らぐことのない事実であると断言できる。だからこそ、どちらが優れているのかなんて野暮なことを言うのは無粋の極み。どっちも好きでいいし、苦手な人は敬遠すればいいのだ。

これが私なりにたどり着いた、格闘技とプロレスの今である。

このふたつは立っているところが似ているから比較されるし、誤解される。だが、明確に目指す先は違っている。そのことを運営側が主張するのは野暮である。見る側が粋にならねばならない。観客の成長も最高のイベントと最強のヒーローが生まれる前提であるからだ。

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最後にお伝えしたいことがある。危険地帯についてのレポートばかりを発表してきたのに、なぜ今回に限って、専門ライターが多く、批判を浴びるかもしれないプロレスのレポートに手を出したのか。それは単純で、私が長年のプロレスファンであり、本サイトの編集長もまた筋金入りのプロレスファンだからである。

8万の大観衆の歓声と足踏みで響く地鳴り。この感動を共有しようと、時差も考えずにアメリカから多忙を極めるS編集長へと写メを送信したのだった。

ほどなく返事があった。

「今後は丸山さんのことを、レッスルマニアを経験した人として崇めます!」

あとあと冷静になって考えると、会場でテンション上がったからって、酷なことをしてしまったなと思い、彼に対してなんだか申し訳ない気持ちになったので、どんな試合だったのかをレポートしようとこの原稿を書き始めた。それが理由だ。

このやり方には、下敷きにした先人がいる。ボクシングのモハメド・アリVSラリー・ホームズ戦のチケットを高倉健さんに譲ってもらった沢木耕太郎氏が、返礼として詳細なレポートを健さんに送ったというエピソードがある。このノンフィクション故事にのっとってみたというわけだ。

沢木耕太郎さんのような秀逸なノンフィクションには遠く及ばないが、単なる自慢で終わらせるわけにはいかないな、と格闘技・スポーツビジネスの将来を自分なりに考えることにした。言い訳からスタートしたことを考えると、費用対効果は抜群に悪い。カロリー計算でいったらすでにマイナスであるが、それと同時にプロレスと格闘技の未来を自分なりに考える、よいきっかけとなったことには触れておきたい。