浪花のモーツアルトの礎をつくった「ダンスホールの青春」

キダ・タローの告白【中編】

芸に身をささげたレジェンドたちの生き様を描き続けるノンフィクションライターの田崎健太氏が、「いま、どうしても話が聞きたい」と会いに行ったのが、浪花のモーツアルトと呼ばれるキダ・タロー氏だ。ほとんど記録に残されてこなかった氏の数奇な人生を振り返るインタビュー。その中編をお届けする――。

米軍クラブとキダ・タロー

俳優・藤岡琢也の自伝『今夜はジャズで』には、高校時代の同級生であるキダ・タローと一緒に組んだバンドの編成は、〈バイオリン2、クラリネット1、ギター1、アコーディオン1、ピアノ1〉であったと書かれている。

これをキダに確認すると、「記憶ないなぁ」と首を傾げた。

「ピアノは(先輩で関西学院大学の)キタガワという男やから、来たり、来ひいんかったり。参加したという印象はほとんどない。バイオリンは2って書いてありますか? そうですか……。藤岡が書いているんならば、そうなんちゃいますか」

藤岡はバイオリンの弦を買うことが出来ず、〈進駐軍でくすねてきた電話線〉を張ったという。

「それは知らん。その頃は弦は売っていたと思いますよ」と手を振った後、「いや、俺の記憶は頼りないからなぁ」と心細そうな声を出した。

「電話線か……それでもええ音してましたで」

 

当時は「バンド」と名乗っていれば、仕事があった。神戸港の突堤、芦屋のリド・クラブ、曽根文化会館などで行われていたダンス・パーティで演奏していたという。

日本の芸能界の源流を辿って行くと、戦後の進駐軍に辿り着く。ジャズを中心としたアメリカから入って来た音楽とそこに影響を受けた人間たちが、日本の音楽ビジネスの原型となった。

東京では、キダよりも二つ年上、早稲田大学に在籍していた渡邊晋がベーシストとしてキャンプで演奏活動を行っている。彼は後に渡辺プロダクションを興した。この渡辺プロからホリプロダクションなどが枝分かれしている。ジャニー喜多川も初期の渡辺プロに出入りしていたという意味では、広義の出身者と含めてもいいだろう。

大阪でも太平洋艦隊第六軍の陸軍である第九八師団が大阪市東区(現・中央区)の住友本社ビルに司令部を置いている。その後、統治機構の変更により第八軍の管轄となり、第二五師団が進駐。司令部を同じ東区の日本生命ビルに移した。大阪府下で三〇〇件もの事務所、商業施設、病院、学校、個人住宅を接収したという記録が残っている。

こうした米軍兵のために設けられた米軍クラブではバンドを必要としていた。大阪近辺で一〇〇ほどのバンドと千名近くのバンドマンが活動していたといわれている。

高校生だったキダたちは教えを請うため、年上のミュージシャンたちに会いに行っている。

「そりゃ、そうですやん。上手くなりたかったですもん。ごっつ研究しましたもの。向上心の固まりやった」

ただし、キダたちのタンゴバンドは長続きしなかった。藤岡が急にバンドを辞めると言い出したのだという。

「なんで辞めるって聞いても……なんで辞めるって言うたんかなぁ。とにかく藤岡の辞め方というのは不明瞭極まりない」

前出の『今夜はジャズで』によると、藤岡は肺結核に罹っていた。アメリカから闇ルートを使って取り寄せた〝ストレプトマイシン〟により、一時は回復に向かった。しかし、この薬は副作用の恐れから連続投与が禁じられており、何より高価だった。そこで〝気胸療法〟に切り替えたという。

〈気胸療法というのは、肋膜の内壁と外壁の間に針を差し込み、空気を入れて肺を抑え、病巣を圧迫させる療法である。これまた効果があって通学を許可されたので学校へ通いはじめた。

ところがある日、電車に乗り遅れまいと駅へ駆けていると、ぼくの体のどこかでチャポチャポと音がしている。「今朝、出かけに水を飲んだかなあ…いや、飲んではいない…辺だなあ」と立ち止まって体を揺すってみると、また、チャポンと音がする。もしやと病院でレントゲンを撮ってみると、肺の真ン中辺りに一本くっきりと水平線が浮かんでいる。すぐさま、水を抜いたのだが、水はしだいに膿汁となってきて、膿胸という状態になってしまった〉

そして入院を余儀なくされる。バンドを脱退したのはこの前後だろう。