「浪花の全身作曲家」キダ・タローが明かす数奇な人生

前編:終戦とアコーディオン
田崎 健太 プロフィール

終戦とバンドと

キダの中学生時代は、第二次世界大戦で日本の敗戦が濃くなっていた時期と重なる。通学で使っていた阪急電車から見た光景が今もキダの脳裏に焼き付いている。

「小林(駅)と逆瀬川(駅)の間に川西航空機の工場があったんです。見渡す限り、三角屋根がぶわーっと広がっていてね。ところが、ある日、電車から見たら更地になってました。爆撃ですわ。普通に考えたら(戦争に)負けますわな。もちろん、そのときはそんなことは思っていませんよ。本土決戦になったら竹槍持って行くつもりでいましたから」

航空機の機体、エンジンなどを製作していた川西航空機宝塚製作所は、爆撃の目標となり、四四年七月二十四日の空襲でほぼ潰滅に違い被害を受けたという記録が残っている。

「私の場合、将来こうなろうって考える男と違います。前途十五メートルぐらいを見て歩いて来たんです。将来、何になろうというのは一切なかった。その頃は戦争中ですから徴兵が迫ってきている。うちの上から三番目の兄が職業軍人、堺の連隊にいた曹長なんです。兄から陸軍というのはいかに少年兵に厳しいかっていうのを散々聞かされてました。だから徴兵で行ったらあかん、兵隊に行くんやったら海軍やって叩き込まれました」

 

ただし、その頃、すでにキダの視力は落ちており、海軍の中でも選択肢は限られていた。

「眼が悪くて、海軍兵学校はあかん。海軍経理学校やったら(視力)〇・七でええという話を聞いて、行こうと思ってました。経理学校とかを出たらすぐに尉官。そうなったらあまりドツかれる心配はない」

その選択をする前に、終戦を迎えた。その日のことは良く覚えている。

「学徒動員で東洋ベアリング武庫川工場におったんです。それで、ラジオからぼそぼそぼそって、意味の分からん言葉が聞こえてきた。のちにあれが玉音放送やって分かるんですが、そのとき、漢文の先生が〝これは戦争が終わったんや〟って。そのときの解放感というのは、人生で後にも先にもない」

終戦の時点でキダは十四歳だった。最も感受性が鋭い時期である。

九月十五日、大阪で進駐軍向けのラジオ放送局WVTQが開局した。

「アメリカ文化が怒濤のように入って来た。特に音楽。ジャズ、カウボーイソング、ポピュラーミュージックと今まで聞いたことがなかった音楽が進駐軍のラジオ放送から流れてきた。それまでは日本の音楽と三国同盟のイタリアとドイツ(の音楽)だけ。カンツォーネやオペラです。世の中にこういう音楽があったというを知らなかったものやから、凄いカルチャーショック」

ラジオから流れてきた音楽を聴いて、キダは自分も演奏してみたいと思うようになったという。

「あのときは、全員が思ったんちゃいますか?」

キダは軽い口調で言った。

「全員がそう思うて、三人に二人がギターを買ったはずです。大学生あたりは金持っているからトランペットとか買うて、バンド作った」

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