「浪花の全身作曲家」キダ・タローが明かす数奇な人生

前編:終戦とアコーディオン

芸に身をささげたレジェンドたちの生き様を描き続けるノンフィクションライターの田崎健太氏が、「いま、どうしても話が聞きたい」と会いに行ったのが、浪花のモーツアルトと呼ばれ、数多くの名曲を輩出してきたキダ・タロー氏だ。ほとんど記録に残されてこなかった氏の数奇な人生を振り返る――。

会いたくてたまらなくなった

キダ・タローは不思議な存在である。

〝浪花のモーツアルト〟という人を食ったキャッチフレーズにより作曲家らしい、という認識はあるにしても、関西文化圏以外では、彼が何者であるのかを把握している人間は限られる。

それでも、ほとんどの人は彼が作曲した音楽を一度は耳にしたことがあるはずだ。

例えば――。

日清食品の〈あらよ、出前一丁♪〉、大阪のランドマークである『かに道楽』の〈獲れ、獲れ、ぴち、ぴち、かに料理♪〉、あるいはよみうりテレビの〈2時のワイドショー〉、朝日放送の〈プロポーズ大作戦〉のテーマ曲。はたまた『アホの坂田』という話題になりすぎて放送自粛、廃盤に追い込まれた〝名曲〟もある。

黒縁眼鏡が印象的なこの男の仕事が埋もれがちなのは、流行歌とはパラレルな存在であるコマーシャルソングが中心であったこと、そして東京ではなく大阪を活動拠点に置いていたからだ。

コマーシャルソングという〝傍流〟、そして大阪ということもあり、キダに関する資料は驚くほど少ない。

ぼくは昨秋『全身芸人』(太田出版)という本を上梓した。その中の一人、月亭可朝はすでにこの世にない。調べてみるとキダも八八才になっている。戦後の日本、そしてテレビの草創期をくぐってきた彼らに話を聞く時間はあまり残されていない。そんなことを考えると、ぼくはキダに会いたくてたまらなくなった——。

 

父は捜査一課の刑事

キダ・タローこと木田太良は、一九三〇年十二月六日に兵庫県宝塚市で六人きょうだいの末っ子として生まれた。父親は刑事だった。

「今でいう捜査一課です。殺人の担当。死体を下に置いて記念撮影した写真が、家にようけありましたわ」

太良という少々変わった名前になったのは、父親の職業と関係がある。

「最初に親父が付けたのは幸夫という名前やったんです。臍の緒に名前を書きますよね。私も見たんですけれど、そこでは幸夫になっている。その頃、親父は上甲子園あたりの高級住宅地を聞き込みで回っていたらしい。その一軒の表札に〝木田太良〟というのがあった。私が産まれて名前をつけたけど、本格的につけたつもりではなかった。

それでその家に入って、なんて読むんですかって聞いたんです。ほうしたらタロウと呼びますって。面白いじゃないですか、太良と書いてタロウって読むの。木田という苗字も一緒やし、これにしようって決めたんです」

立派な屋敷に住んでいるのだから、社会的にも成功を収めているはずだ。その人間の名前ならば、字画的にも問題ないだろうと、父親は考えたのだろう。

これには後日談がある。

キダがテレビに出るようになった後、この〝木田太良〟を番組の企画で探したことがあった。そこで現れたのは、キダと同年配の男性だった。話を聞くと、表札には家長ではなく息子の名前を出していたのだという。

話をキダに戻す――。

「宝塚の警察官舎で生まれて、兵庫県下、十箇所ぐらい転々としてます」

四三年、今津国民学校を卒業、関西学院中等部に進んだ。これは母親の意向だった。

「関学っていうのは、風の便りで坊ちゃん学校だというのは聞いてました。今でこそ、頭が良うなかったら入れませんけど、昔はすぐに入れた学校。要するに(兄や姉の)子育てをしているうちに、お袋が学歴がもの凄い大切やというのを痛感したと思うんです。(関学に入ったのは)親の見栄でしょうな」

そしてこう付け加えた。

「母親が願うとった学校に入って、記念写真を撮ったときが私の(人生の)ピークでした」