R介 そうすると、哲学はやはり「知を愛すること」が本来の意味であると解釈すべきでしょうかね?
髙橋 有り難みという点では、そうかもしれません。私も「知る」ことは大切だとは思いますが、やはり知を愛しちゃいけないでしょう。それは例えばデートのときに、相手のことはそっちのけで薀蓄を垂れるようなものです。
相手ではなく「知」を愛しているんですから。そういう人は哲学者というよりただのバカではないでしょうか。知を愛すると「知ったかぶり」に陥るだけ。愛することを知ったほうがしあわせになれると思いますよ。
R介さんは「愛なら得意」だそうで、あなたのほうがよっぽど哲学者ですよ(笑)。
ちなみに質問に出てきた「本来の意味」の「本来」という言葉ですが、『近代日本語の思想』(柳父章著 法政大学出版局 2004年)によると「舶来」なんだそうです。
私たちはよく「本来の意味は……」と言いますが、それは「舶来の意味」ということ。要するに翻訳のことなんです。「わけがわからない」だって「訳がわからない」って書くじゃないですか。(笑)
R介 それは、なんだかすごく聞いてはいけない話を聞いたような気がするんですが。
髙橋 たとえば「形而上学」というのは、「Metaphysics」の訳語で、これは直訳すれば超物理学です。目に見える物理を超えて物事が「ある」ということ自体の原理・原因を解明しようとすること、といった意味だと思います。
ところが訳すときに、易経の『繫辞伝』に出てくる「形而上」を流用しています。英語を漢語に置き換えるという、さっきも話したパターンです。
ところが『繫辞伝』をよく読むと、「形而上」というのは「道」のことであり「しばしば変わっていくもの」で、原理原則のように把握してはいけない、と書かれています。
つまり訳語が原語の意味を否定していることになる。誤訳ともいえますが、わざとよじらせることで、深みや有り難みを増すのかもしれません(笑)。。
といっても私たちは漢字のおかげで文字を得たわけで、「舶来」を有り難がるというのは、日本人の宿命のようなものかもしれません。
西洋の古典の翻訳も3人目4人目の訳者が手掛けると、前の人の訳と変えなければいけないために、「本来の意味」ということで原語をそのままカタカナにしたりする。
10人目あたりでは「てにをは」以外は全部カタカナになるんじゃないでしょうか。
そうなると原語がわからないとさっぱりわからなくなるし、たとえわかるようになっても、今度はそれを日本語では伝えられないわけで、日本人からすればわかっていないのと同じになる。これは日本人の宿痾なんでしょうね。