『陽の鳥』 著者:樹林伸

希代のヒットメーカーが挑むメディカル・エンタテインメントを連続公開 VOL.1

 一九九六年に誕生し翌年発表された、初めての体細胞クローン羊『ドリー』のニュースは、次はクローン人間の誕生かと学界を飛び出して世論を舞台に騒がれ、人々を賛否両論で二分させて激しく揺さぶった。しかし、現実には人間を含めた霊長類の体細胞クローン胚樹立には、ドリーの誕生から三年が過ぎた現在まで、世界のどの研究者も成功していないとされていた。

『陽の鳥』
著者:樹林伸
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 その理由はいくつか推論されているが、クローンに用いる体細胞の核が持つ遺伝情報、『ゲノム』を、受精卵のようなどんな組織にも分化しうる状態にまで初期化する力が、霊長類の卵子は他の動物のそれより弱いのではないか、という説が有力だ。

 森彦の成功はまさに、卵子のどこかに存在するとされながらタンパク質なのかホルモンのような生理活性物質なのかさえもわからなかった、この『ゲノム初期化因子』の発見によるものだった。

「さあ、替わろう」

 名嘉城の肩に置いた手にわずかに力をこめて、顕微鏡のレンズから離れるように促す。名残惜しそうに森彦に立ち位置を譲りつつ、名嘉城は尋ねた。

「壊しちゃう前に教えてくださいよ、先生」
「何を?」

 レンズを覗き、ハンドルを手にしながら問い返す。

「前から訊いてることですよ。こいつが誰のクローンかってこと」

 顕微鏡の向こうで、胚がドキリと動いたように見えた。もちろんそんなはずはなく、気のせいだろう。

「世界で初めて作られかけたクローン人間が誰の遺伝子だったかなんて、知ってたらそのうち自慢話にできますよ」

 名嘉城はたまに森彦に対して、こういう子供染みた好奇心をぶつけてくる。難関で知られる国立大学の医学部に予備校にも通わず独学で合格し、しかも奨学金を受けて卒業しているくらいだから相当に頭はいい。事実、助手としても極めて優秀な人材ではあるが、二九歳という若さを考慮しても、研究に向ける彼の情熱のあり方は、まるで小学生の理科の実験を見るようだった。色白のつるんとした頬を紅潮させて、飽くことなくいつまでも顕微鏡を覗いている。才能のある発明家や科学者に多いタイプではあるが、投げかけてくる質問やアイデアは、内容こそ専門的で高度だが発想は実に無邪気で、まだ八歳の小学三年生である森彦の息子に近いものがあった。

 しかし彼の持ち味ともいえるこの子供っぽさが、森彦に立ち塞がる壁を突き抜ける革新的発見のヒントを与えてくれたことは間違いなかった。