14代将軍徳川家茂が歩いた東海道

見える将軍へと変わった幕末の転換点
久住 真也 プロフィール

このように、時に将軍自身に我慢を強いるほどの沿道の負担回避は、幕府中枢部が重視したことだった。そのため、当初は海路蒸気船による行路が選択されたが、実施直前に文久2年(1862)に起きた生麦事件の賠償要求に絡むイギリス艦隊の動向が懸案となり、結局陸路になったという経緯がある。

沿道の疲弊について見れば、嘉永7年(1854)以降、大地震や風水害が諸国を襲い、東海道の各地に大きな爪痕を残した。さらに、文久期には、和宮(かずのみや)の江戸下向の大行列が中山道を下り、また後述する幕府の文久改革により、大名妻子の江戸居住制が廃止された影響で、東海道や中山道を大名家の行列が夥(おびただ)しく通過した。そこに、追い打ちをかけるように今回の上洛計画が浮上し、それに前後して大名の上洛もおこなわれることになったのである。

これらは、沿道各地に助郷(すけごう)による人馬負担を強いるものであり、領主支配の維持の観点からも、人心の動向は幕府の重大な関心事項とならざるをえなかった。

上洛に先立ち、文久2年9月に東海道の道筋検分がおこなわれたおり、勘定奉行の名代溝口某が、下々に難儀をかけたとの理由で差控を命じられたのも、内外への幕府の強い決意を示すものであった(「御上洛御用留」『千代田の古文書』2、23頁)。

規制緩和の実態

このような幕府の姿勢は、行列通過に際しての大胆な規制緩和として現れた。従来、将軍が江戸市中を通過するおりは、人びとの生活に多大な影響を与えた。それは明治期につぎのように回想される。  

当日は雨戸を閉(た)てて、二階などへは目張りをして、其上一切煙を挙げることを禁じてありますから、前晩に当日の飯を焚いて置いたものです、去来(いざ)御成りといふ前になると、黒羽織を着た同心(正しくは御徒〈おかち〉)が扇子を持つて、御払ひ御払ひと怒鳴つて通る、それを聞くと大屋だけが出て、溝渠板(どぶいた)の上に土下座をして、御通りを迎へた、他の者は一同家の内に謹慎して居る、御通りが済む、又同心が中通(なかどお)し中通しといふのを聞いて、初めて往来が出来たものでした(『同方会誌』3、44~45頁)。  

類似の証言は多数あるので、同時代の人びとは、よほど強く印象づけられたのだろう。お成りでの規制は、将軍の御代を象徴するものであった。もっともそのような規制は、上洛直前の文久2年9月以降緩和されつつあった。

さらに、この上洛に際しては、大坂・伏見・京都では、沿道の屋敷に「窓蓋」をする必要はなく、すべて平常通りにすること、また通行に際して人留め(通行止め)に及ばず、往来人は端で下座することが許された(『続徳川実紀』4、517頁)。

一英斎(歌川)芳艶画「東海道 吉原」(筆者所蔵)

そして、出発前日には、道中の宿駅や村々では、貴人の出迎えの作法である盛砂(もりすな)(砂を円錐形に盛ること)をおこなったり、手桶などを差し出す必要はなく、人留めや、行列の先払いはおこなうが、旅人は横の小路に止め、「御行粧(ぎょうしょう)」(将軍の装い)を拝見させるように触れられたのである(同、547頁)。実際に、初日に家茂が高輪を通行した際には、規制も緩く旅人も易々と歩行できたと報じられた(『東西紀聞』1、199頁)。

また、これらの規制緩和は、時に強制力をともなった。2月15日に一行が相模国の平塚宿に入ったおり、同宿ではあちらこちらの小路に、空き地や目障りなものを隠す目的で板囲(いたがこい)がされており、今回の趣意に反すると問題になった。これは領主である小田原藩主大久保忠礼(ただのり)の指示によるものであった。老中の水野は目付に命じて、大久保家と沿道の大名に対し、領内は平日の通り商売をさせること、路上の板囲なども無用である旨を伝達させた(水野日記②)。

しかし、同様のことはくりかえされた。尾張藩領の名古屋でも御三家の城下町として、同藩の指示により目隠しのため、板囲のほか戸を打ち付けたり、葦簀(よしず)を二重にするなどの措置をおこなったところ、将軍一行が到着する際に幕府の触によって、それらはすべて取り払われた。これらは「万事御寛大の御儀」とされたのである(『東西紀聞』1、203~204頁)。

以上のような措置が、つぎに具体的に見るように、膨大な人びとが将軍の姿をはっきり捉えることを可能にした。十重二十重(とえはたえ)に築かれた舞台装置が外されていけば、生身の人間が現れてくるのは当然であった。

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