14代将軍徳川家茂が歩いた東海道

見える将軍へと変わった幕末の転換点
久住 真也 プロフィール

はたしてそこでの将軍のあり方は、いかなる意味を持ち、時代の転換とどのように関係しているのか。まずは道中の将軍に密着したい。

歩行する将軍

以下では、家茂の上洛中の様子について、「昭徳院殿御上洛日次記(しょうとくいんでんごじょうらくひなみき)」(『続徳川実紀』4所収)、随行した老中水野忠精(みずのただきよ)の①『幕末老中日記』と②「御旅中日誌」(「水野家文書」首都大学東京所蔵)などを中心に用いながら見ていく。

家茂の出発当日の服装は、白敲(たたき)の陣笠(表が白、裏が金で、幕府の使番〈つかいばん〉などが用いるもの)、紋付の割羽織(わりばおり)に野袴(のばかま)という旅行に適した軽装であり、これが旅中の基本であった。

そして移動手段は駕籠か歩行が主であり、馬上も少ないが見られる。具体的に示すと、家茂は出発日の2月13日に、江戸の高輪(たかなわ)の手前、金杉橋(かなすぎばし)からすでに歩行を始め、そのまま、休息場である品川東海寺に入った。その後も川崎に向け六郷川(多摩川最下流)まで歩行している。

歌川広重「東海道五十三次之内 品川」(1833年)(Photo by: Picturenow/UIG via Getty Images)

翌14日は風雨が激しく歩行はなかったが、晴天ならば歩行したであろう。それは、雨の上がった翌15日~19日の戸塚~大磯~小田原~箱根~三島~吉原にいたるまで、連日歩行が見出せ、特に19日の吉原から興津(おきつ)(現静岡市)の清見寺(せいけんじ)までは終日歩行したことからも推測できる。

老中の水野は、駿河の由比宿(ゆいしゅく)(現静岡市)で、家茂から側衆(そばしゅう)を介して駕籠での供をゆるされ、御礼を言上(ごんじょう)している(水野日記①)。当時数えで32歳だった水野は、18歳の活発な将軍の歩行頻度に、音を上げたのかもしれない。

また、終日歩行した19日の区間は、宿泊所である興津の清見寺をはじめ、富士が見える絶景の連続であった。そういえば、家茂は初日、江戸の名所であり、初代歌川広重の『名所江戸百景』でも描かれた蒲田の梅屋敷で小休している。水野日記②では、「蒲田北梅屋敷俄(にわか)に御小休仰せ付けられ、暫(しばら)く御休息」とあるので、家茂の意思により予定が変更されたことがわかる。さらに大磯でも、家茂自身の希望で、浜の景色を見るため行列は停止した(水野日記②)。

このような上洛のあり方を、同時代の記録も特筆した。例えば、明治44年(1911)に刊行された会津藩の立場からする歴史書である『京都守護職始末』は、行列の「諸事簡易」に触れたあと、将軍について「其旅装亦(また)近臣と同一にして、時に或は徒歩せる等、其質素簡略実に空前の事なりとす」と述べている(70頁)。

一般に、参勤交代において、大名が歩行することは珍しいことではなかった。しかし、大名と将軍では異なるというのが、当時の認識だったようである。『京都守護職始末』が、将軍が軽装で歩行する衝撃を「空前」と表現したことは、当時の人びとの感覚として、やはり重視しなくてはならないだろう。

沿道への配慮

前述のとおり宿泊所は駿府城を除き、本陣と寺院が使用され、新規の修繕などは制限するなど質素を標榜した。宿泊予定地は、事前の選定とともに、直前にも念入りに検分がおこなわれた。それにもかかわらず、つぎのような問題も発生した。

2月28日に宿泊予定だった桑名の本統寺(ほんとうじ)を前に、家茂の側近から、同寺が陰気な様子であるとして宿所変更の要請が水野になされた。

理由は、25日に三河国吉田(現豊橋市)の龍拈寺(りゅうねんじ)に宿泊した際、座敷内がひどく陰気であり、家茂が不快に感じ、特に善処するように命じたことがあったからである。側近は同様の事態が起こることを心配し、急ぎ「外本陣」(脇本陣)への変更を要請したのである。そこで水野は目付に確認したところ、目付からは、同寺が将軍上洛のために普請をおこない、将軍の御座所も修理しているので問題ないという返答があった。水野は、寺側の準備にもかかわらず、急に宿所を替えることは、将軍の「不徳」にもなるとして変更しなかった(水野日記②)。その代わり、水野自身も念入りな検分に追われ、種々の対応を強いられた。

これらも、質素・簡易方針にともなって生じた問題といえよう。

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