葛飾北斎「東海道 程ケ谷」『富嶽三十六景』Photo by GettyImages

14代将軍徳川家茂が歩いた東海道

見える将軍へと変わった幕末の転換点
江戸時代、多くの人びとが往来した東海道。なかでも、14代将軍徳川家茂の229年ぶりの上洛は、多くの錦絵が描かれ、将軍を見ようと見物人が押しかける一大イベントだった。江戸東京博物館で開催中の「江戸の街道をゆく――将軍と姫君の旅路」(2019年6月16日まで)のなかでも紹介されている家茂上洛とはどのようなものだったのか。『王政復古――天皇と将軍の明治維新』より部分公開する。

幕末の文久3年(1863)3月、14代将軍徳川家茂は、3代家光以来じつに229年ぶりとなる上洛を敢行した。それは、ペリー来航以後、権力基盤がゆらぐ幕府の再生を賭けて臨んだ一大事業であった。また、この上洛は、広範な地域の膨大な人びとに対し、国政の中心にある将軍の姿を提供した画期的な出来事となった。おそらく、歴代将軍のなかで、家茂ほど多くの人びとに姿を見られた将軍はいない。その時、国内では攘夷か開国かをめぐり政治は混迷し、将軍の存在意義や役割が厳しく問われていた。それに対応すべく、若き将軍が見せた権力者のスタイルは、王政復古への流れのなかでいかなる意味を持つだろうか。今から約150年前の東海道で展開された、幕末史の転換点に注目する。

「見える将軍」への転換

東海道を京都に向け、家茂が江戸城を出発したのは文久3年(1863)2月13日であった。一般に将軍の上洛と言えば、多数の大名や旗本を率いて力を誇示する大行列を想像するのではないだろうか。

実際、寛永11年(1634)の3代家光の上洛では、江戸から多数の大名が従い、その人数は約30万7000人を数えた(『徳川実紀』2、638頁)。将軍権力の強大さを見せつけるにふさわしい演出である。また、幕末に近い天保14年(1843)におこなわれた12代家慶の日光社参でも、10万人を超えた大行列だったとされる。

これに対し、家茂による文久の上洛は、将軍の出発以前に2、3の譜代大名が先発したのみで、将軍の一行自体は、限りなく徳川家の「大名行列」に近いものとなった。人数は、種々の史料で検討するかぎり、約3000人から多くて4000人前後であり、寛永期とは比較にならない少なさであった。これは、加賀前田家の参勤交代の人数に近く、同時期に上洛した水戸、仙台などの大藩は、将軍よりも大規模な行列だったという風聞が沿道で流れたほどである(拙稿「文久三年将軍家茂上洛の歴史的位置」)。

注目すべきは人数だけではない。幕府は将軍上洛の日限を具体的に決定して以降、上洛に際しては、昨今の物価騰貴、庶民困窮、下々の迷惑などを理由に、格別の省略と質素・簡易の趣意を徹底するように再三触れ、随行人数の制限をかけている。また、旗本以下随行者の服装や所持品にいたるまで、華美が厳しく禁じられるなど、行列の規模から行程、視覚的な要素まで、徹底した質素・簡易が追求された。

月岡芳年「東海道 石部」(Photo by Getty Images)将軍家茂の上洛が描かれている。

さらに、寛永11年に先立つ同3年(1626)の家光上洛では、沿道の大名たちに道中の「巌石(がんせき)」処理、橋梁の新たな敷設、宿場整備など多大な負担を強いたが(『徳川実紀』2、374頁)、今回は宿泊については駿府城のほかは、通常の大名と同じく宿駅の本陣や沿道の寺院を利用するとし、本陣の御座所の修築や道・橋の修繕などは、放置できない部分のみ認められた(『続徳川実紀』4、390~411頁)。

つまりこの上洛は、大規模で華麗さによって演出される将軍の「御威光」の原理とは、まったく逆のベクトルを指し示していたのである。

もうひとつ上洛の特徴として言えるのは、以下に詳しく見るように、将軍家茂が生身の身体をさらしながら京都に向かった点である。

従来、近世を通じて将軍は、神のような他から隔絶した「見えない」存在であり、その姿を一般の人びとが拝することはできなかったと考えられてきた。しかし、近年では、早くは天保14年の日光社参において、12代家慶が積極的に沿道で民衆に姿を見せたことが指摘されるなど、再考すべき点が見られるようになっている(椿田有希子『近世近代移行期の政治文化』112~113頁)。しかし、文久の上洛は、東海道という日本列島の中央を貫く大動脈を、将軍が広範囲に姿をさらしながら移動したという点で、やはり画期的であった。