戦前の講談社と読売新聞が「関係断絶」に陥った、ある理由

大衆は神である(53)
魚住 昭 プロフィール

「広瀬くんが会社を辞めたよ」

ところが、である。清治の報知入り後、講談社の「頻繁なる昇給」がなくなった。理由は2つある。1つは先ほど述べたように、報知に毎月多額の金をつぎ込むようになって、講談社の資金繰りに余裕がなくなったことだった。もう1つの理由は天田に語ってもらおう。

〈――社長がそれまで音羽の山で自分の社員にだけかかずらっておったのが、報知に行くようになって「新聞社というのは安いんだね。月給百円もらっている人は少ないんだよ」と言いだした。以来、講談社の俸給は全部ストップ。

だが、報知は講談社と違い、夕方五時には皆いなくなる。夜勤手当がなければ残業もしない。それなのに、一日十五時間も十六時間も働く講談社の社員の俸給を報知と同じにしたんでは、ギャップができる。報知に進出したために講談社の社員としては非常に損をしたと思うね。(略)それから講談社はふつうの会社になっちゃったんだ。昭和五年以後。僕はそれははっきり言えると思う〉

 

このころ世界恐慌の影響もあり、主力雑誌『キング』の売れ行きが悪化した。具体的なデータが社史に残っていないのではっきりしたことは言えないが、創刊から6年後の昭和5年ごろには発行部数が100万部を大きく割り込んだらしい。

それまでの『キング』躍進の立役者は、事実上の初代編集長・広瀬照太郎(『キング』の主任は長谷川卓郎だが、編集作業は広瀬にほとんど任せていた)だった。

広瀬は中国地方の但馬(兵庫県北部)の農村出身で、おそらくは子供の時から土に親しみ、広大な但馬の山野を駆けまわったであろう野性的で筋骨質な男だった。しかし、外面とは反対に、内面的には若いときから雑誌や本を愛読して、そこから吸収した雑学的知識は驚くほど豊富だった。

広瀬は仕事の合間に、浄瑠璃のさわりをうなって、よく部員を笑わせた。かと思うと、広瀬のアシスタントが記事の割り付けをしながら、物差しをバチ代わりに「またも出ました三角野郎が」と八木節をうたう、そんなのどかな光景があった。

『キング』創刊後のある日、広瀬は団子坂の社の近くの「江戸正」に鰻弁当を注文していた。それが1〜2回ならともかく3回、4回とつづき、5日目のとき、さすがに見かねたのか、石原保男という広瀬の軍隊時代の上官だった男が部員にいて、「広瀬君、大丈夫かい。鼻血でも出たら大変だよ」と笑いながら言った。

「大丈夫、大丈夫。食べるのも仕事の一つですからね。創刊号の苦労を取り戻すために、いつまで食べられるか試食中ですよ。心配しないでください」

と答えて、広瀬はカラカラと大声で笑った。広瀬の鰻弁当はその後もつづき、とうとう20日間で豪快な終止符を打ったという。以下は講談社OBの文集『緑なす音羽の杜に――OBたちの記録』(非売品)に収録された元『キング』編集部員・中川雅枝の回想である。

〈一家に一冊と宣伝して、事実あまねく読者を集めていたキングが、途中バッタリと売れゆきが止まった。社長はあれこれと気を配られて、もしやと広瀬さんの周辺に人をもって調べられたそうな。その結果、広瀬さんが雑司ヶ谷に自宅を新築中で、毎日のように見廻りに来ていると言う情報がはいった。つまり社長に申しわけのない職務怠慢である。

そのころとおぼしく広瀬さんは国から丸太をとり寄せて大黒柱にしたと自慢話を吹聴していた。子供のように喜んでいた広瀬さん――それから間もなく広瀬さんの姿がデスクから消えた。幸いキングは校了ずみで当面の支障はなかった。

そして編集長不在から三、四日経った日のことだった。社長と同窓の長谷川発行人が、編集会議の席で今までの低迷を破るように「広瀬くんが、会社をやめたよ」と、ポツリと言って苦笑された。しかしなぜやめたか理由は公表されなかった。みんなはショックを通り越して、まるで狐につままれたような空しさをおぼえた。

謎のように姿を消していた広瀬さんが、新潮社の大衆雑誌「日の出」の編集長として、再び脚光を浴びたのはそれから間もない日のことだった。あまりのことに元の部員たちも「おや、おや、講談社にしっぺ返しか」と噂したものだった。しかし「日の出」もしょせんキングの二番煎じでしかなかった。とうとう読者の信頼を得られずいつの間にか消滅してしまった〉

参考文献:

『読売新聞百二十年史』
『正力松太郎 悪戦苦闘』(人間の記録86、日本図書センター刊)
高木教典「正力松太郎」(『20世紀を動かした人々15 マスメディアの先駆者』所収、講談社刊)