戦前の講談社と読売新聞が「関係断絶」に陥った、ある理由

大衆は神である(53)
魚住 昭 プロフィール

関係断絶8年

ところが翌日、講談社から読売の広告部に「今日から広告をやめます。なお社長が謝罪に来られても駄目です」と電話が入った。これは正力に謝りに来いという謎かけだった。講談社の広告中止で読売が受ける打撃は大きい。ふつうなら正力が講談社に頭を下げるところだろう。しかし正力は「俺はゆかん。俺は正しいことをやったんだ」と言って、意地を張った。

以来、両社の関係は断絶した。復活したのは8年ものち、清治没後のことである。元取次・北隆館の主人が仲介に入り、講談社が読売の広告料値上げを認める一方「最低特約値段」を適用することで話がついた。講談社の面子も立てつつ、広告料値上げを認めさせた点では読売の勝利だった。

 

その間、正力は最初の区内版「江東版」の創設(昭和7年8月)や、投身自殺の名所・三原山火口探検(昭和8年5月)、全米選抜プロ野球団の招聘(昭和6年と同9年)、日本初の本格プロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(今の読売ジャイアンツ)の創立(同9年)などさまざまな企画、イベントを打ち出し、部数を増大させた。

昭和7年に34万部だったのが2年後には約58万部になって報知を引き離した。さらに清治没後の昭和16年、読売は156万部で、東京日日(昭和18年、『毎日新聞』に社名変更)などを抜いて東京一となり、昭和17年には報知を吸収合併することになる。

結果的に、清治の目論見は大きくはずれたと言っていいだろう。大衆は「美しく明るく強き新聞」より、「グロチックとエロテスクとセセーション」の新聞を選んだのである。

給料の秘密

ところで、戦前の講談社には3つの秘密があった。第1に給料の秘密。第2には原価の秘密。これは紙の値段とか、新聞に出す広告料金とか、その類の原価のことを指している。第3には発行部数の秘密。編集主任でも自分の雑誌の発行部数を知らされなかった。社員の心得として、この3つは社外はもちろん、社内の同僚にも漏らしてはいけないとされていた。

3つの秘密のなかで最もやかましかったのは、給料の秘密である。主任でも部下の給料は知らず、社員は全員入社時に「給料の額を漏らしたらクビにする」と言い渡された。

給料を決めるのはむろん清治だ。毎月の給料日前、清治は2日間自室にこもり切り、徹夜で各社員の給料を決めた。給料袋に金を入れる作業は、初期のころ左衛がした。義弟の高木義賢が経理担当になってからは、左衛に代わって高木が誰にも手伝わせず一人でやった。社員が増え、高木一人の手に余るようになると、自分の妻(左衛の妹)を連れてきて手伝わせた。

こうして給料の秘密は厳重に守られたから、誰がどれくらい昇給しているか、本人以外には決してわからなかった。清治の判断ひとつで毎月昇給する者もあれば、何ヵ月も据え置きの者もいたが、だいたいにおいて「当初の俸給は低く、次々に頻繁なる昇給を行って人の心を奮い立たせる」(笛木悌治の証言)やり方だったという。
元出版部長の天田幸男によれば、清治は社内会議のつど、こう語った。

「社員諸君はとにかく月々同じ俸給をもらわないように。良い人はどんどん増額してやるつもりだ。したがってわが社には定年もなければ、俸給の天井というものもない。社員は一生勤めてもらって、社員のうち良い者は、その子供も孫もうちに勤めてもらいたい。そしてわが社が何百年もつづくように是非してもらいたい」

「給料の秘密」と「頻繁なる昇給」の絶妙な組み合わせは、清治が社員を掌握するのに絶大な効力を発揮した。社員たちはたとえ清治に会う機会が滅多になくとも、毎月の給料が上がっていけば「社長は自分の働きをよくわかっていてくれる」と意気に感じた。そうして、いっそう清治に忠誠を誓うようになり、休日返上で連日深夜まで懸命に働いた。