戦前の講談社と読売新聞が「関係断絶」に陥った、ある理由

大衆は神である(53)
魚住 昭 プロフィール

広告料金をめぐって

昭和7年(1932)夏、正力は読売の広告料金の値上げを計画した。ただ問題は部数が急伸しているのに、広告主がその事実を認めようとしないことだった。認めると、広告料金の値上げに応じざるを得ないから、知っても知らないふりをしたのである。
一計を案じた正力は、旧知の鉄道省運輸局長を訪ねてこう言った。

「広告の値を上げようと思うが、適当な方法がない。読売が(部数トップの)東京日日、東京朝日の下なのは当然だし、(第3位の)報知の下も我慢するが、時事新報より下になっておる。俺んところは時事よりずっと多く、報知に肉薄しておる。それについては証明が何もないから、広告主は聞いてくれん。そこで君んところの運賃表(新聞運賃の受取表)をもらいに来た」

各社の新聞運賃の支払額を調べ、実際に運ばれている部数を比較しようというのだった。

 

運輸局長は「ウン。そうか」と肯いて課長を呼び、1年分の運賃受領表を持ってこさせた。

それを見たら、読売は時事新報を大きく抜いて、報知に肉薄していた。しかも、読売は毎月部数が増えていた。これは新聞界にあまり例のないことだった。

データを手に入れると、正力は広告代理店を柳橋の料亭・亀清楼に集めた。そうして「皆さんに、私が今までいうたことはウソではない。この通りである」と、運賃表を見せ、みなを驚かせた。

つづいて芝の料亭・紅葉館に大広告主たちを招待した。読売の広告部長は、

「今日は講談社から(総支配人格の)赤石喜平さんが来ておるから、運賃表の発表はお控えになったらどうです」

と運賃表の公表を止めようとした。赤石は報知の監査役を兼ねていた。運賃表で報知の低迷ぶりを暴いたら彼を怒らせることになるのではないかと心配したのである。

しかし、正力は、

「それはいかん。俺がここでやらなかったら、講談社の悪口を陰で言うておることになる。俺が疑われる。だからやるんだ」

と言って、運賃表をそのまま読み上げた。広告部長が心配したとおり、赤石は「その運賃表はおかしい」と腹を立てたが、その場はたいしたことなくすんだ。