戦前の講談社と読売新聞が「関係断絶」に陥った、ある理由

大衆は神である(53)
魚住 昭 プロフィール

徹底した大衆迎合路線

『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』(佐野眞一著、文藝春秋刊)によると、このころの正力は鬼面人を驚かすような大見出しをかかげ、読者の関心をあおるだけあおった。

昭和二年には社会面に早くもヌード写真を載せ、江湖(こうこ)の読者の度肝を抜いた。

正力は「新聞の生命はグロチックとエロテスクとセセーションだ」と胸をそらして語り、心ある人々から「正力という男は英語の使い方も知らないのか」と失笑を買ったが、正力の方針はその言葉通り、徹底した大衆迎合路線、もっといえばイェローペーパーづくりにあった。

 

彼の目論見はあたった。買収時に5万5000部だった部数は大正15年に9万部弱になり、昭和5年には22万部に達した。5〜6年で4倍もの増紙である。

しかも、この5〜6年は東京の各紙が大阪系の東京日日と東京朝日の両紙の激しい攻勢にさらされ、あえいでいた時期である。読売の急成長は奇跡的といってよかった。

東大名誉教授・高木教典(たかぎ・のりつね)は「正力松太郎」(講談社刊『20世紀を動かした人々15 マスメディアの先駆者』所収)のなかで急成長の秘密を次のように指摘している。あらかじめ断っておくと、文中に出てくる万朝報は、明治期に上流社会の暴露記事で人気を博した新聞である。

〈(ラジオ版、棋戦などの)企画の成功が増紙の原因であったことはいうまでもない。しかしそれらはむしろ大衆の親しみやすい紙面づくりの氷山の一角であったといっていい。

正力の方針は、徹底して大衆受けのする新聞をつくることであった。正力は、棋戦を機に碁、将棋欄を拡充し、スポーツ欄を創設した。釣り、競馬、マージャンの欄もつくった。正力は毎日、編集局に顔を出しては、大衆の好む新聞をつくれ、紙面を派手にせよと注文をつけた。見出しの字句や写真の大きさや選択にも干渉した。女性の写真を大きく載せさせもした。センセーショナリズムである。

正力のセンセーショナリズムは、明治中期に黒岩涙香が「万朝報」で採用した手法とは明らかに異質であった。黒岩の暴露主義には、皮相ではあったが、倫理観があり主義があった。正力にはそれがない。正力のセンセーショナリズムは、ただその時代の大衆の欲求や、好みに投じるイェロー・ジャーナリズムの手法であった〉