戦前の講談社と読売新聞が「関係断絶」に陥った、ある理由

大衆は神である(53)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

「美しく明るく強き新聞」を掲げて報知新聞社社長となった清治だが、部数は低迷、やがて清治は株の売買にのめり込むようになる。一方その頃、報知とは正反対の「イェロー・ジャーナリズム」を徹底して爆発的成長を遂げた新聞社があった。正力松太郎率いる、読売新聞である。

 

第六章 雑誌王の蹉跌──円本と報知新聞⑸

ラジオ版と囲碁「世紀の対局」

合理化や綱紀粛正だけではない。正力は独創的な企画力を発揮した。

まず目をつけたのは大正14年7月に本放送がはじまったラジオの人気だった。新聞で番組内容を紹介すれば聴取者に喜ばれるにちがいない。当時、ラジオは新聞の競争相手と見なされていたから、社内の反対が強かったが、正力はそれを押しきってラジオ版を創設した。

ラジオ版は2ページで、目立つように薄紅色の紙を使い、当日のラジオ番組、放送される歌、邦楽、ドラマなどの歌詞や筋書き、せりふなどを詳しく紹介した。

これは大きな反響を呼び、月々何千もの新規読者を獲得した。「読売は大失敗するだろう」と見込んでいた他紙は驚き、やがて読売に追随せざるを得なくなった。

ラジオ版につづいて正力が打った大企画は、囲碁ファンを熱狂させる世紀の対局だった。

当時の棋界は名人本因坊秀哉(ほんいんぼうしゅうさい)を擁する日本棋院と、雁金準一(かりがね・じゅんいち、7段)の率いる棋正社とが対立していた。雁金はかつて秀哉に敗れたために本因坊になれなかった因縁があるので秀哉との対戦を望んだ。しかし、日本棋院のスポンサーである大倉喜七郎(大倉財閥のオーナー)が秀哉の他流試合を厳しく禁じていたので実現できなかった。

正力は、これをものにするため秀哉を口説きにかかった。「この手合いに応じれば、今後月1500円生活費を保証する」と持ちかけたのである。秀哉は応じた。

次に正力は大倉と交渉し「もしこれが実現しなければ、秀哉を担ぎ出して新しく『帝国棋院』を創立する」と迫った。大倉も「そこまで言うなら」と折れざるを得なかった。

こうして絶対不可能と思われていた対局が大正15年9月、6日間にわたって行われ、本因坊が勝った。読売はその模様を詳報し、著名作家らの観戦記も掲載して大反響を呼んだ。