新米「腰抜け債券ディーラー」を豹変させた上司のひと言

東京マネー戦記【13】2002年夏
森 将人 プロフィール

普段は寡黙で、滅多に感情を出さない沼田のことだ。なかなか取引できない顧客の要望を聞いてあげたいという気持ちはよくわかったが、つき合っている余裕はなかった。すぐにプライスを変えるのも、説明がつかない。

沼田は電話に戻ると、「じゃあ、決めるぞ」といって振り返った。

「いいんですか?」

「他社と同値だったけど、うちにくれるってさ」

「そうですか……」

説明はフェイクに違いなかったが、ぼくは何もいわなかった。感情的になることで、得られるものは何もない。金額が5億円と、比較的少なかったことが不幸中の幸いだった。

 

決断

むしろ意外だったのは、M銀行からもう10億円、同じ価格で買わないかという相談が来たことだった。

「何とかならないか?」

「できません。さっき買い取った5億円だって、まだ買い手がいないじゃないですか」

「そんなのすぐに見つかるだろ。M銀行のお偉方から直接電話が来てるんだぞ」

「わざわざ腰抜けディーラーに頼むことはないんじゃないですか?」

売り抜けるチャンスをさがしていたのだろうが、いつまでも都合よく使われるのはごめんだった。沼田があきらめて席に戻るのを見送ると、ぼくは販売価格を一気に引き下げた。

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木村がすかさず反応した。

「売り崩すんか?」

「マーケットは不安になっています。もっと値を下げたところでチャンスをうかがいます」

ぼくの提示した価格は、すでに先ほどの買い値を下回っていた。この取引だけを見れば赤字だが、大きな波を作るためには必要な犠牲だった。待っているだけで変化は訪れない。自分がマーケットの先頭を走る必要があった。

ネクタイを外して放り投げると、売りの金額をさらに増やした。すでにぼくは、マーケットにどっぷりと身を沈めていた。

【「東京マネー戦記」は隔週掲載。次回は6月15日(土)公開予定です】