新米「腰抜け債券ディーラー」を豹変させた上司のひと言

東京マネー戦記【13】2002年夏
森 将人 プロフィール

「よくディーラー席に座ってられるな」

「何だか、自信たっぷりに見えますね」

大野に声をかけられたのは、社内のカフェで並んでいるときだった。ぼくは彼の視線の先にある自分のネクタイを手に取った。鏡で見てみると思った以上にピンクの色がまぶしくて、何度か迷ったが、週に何度か締めて来るようになっていた。

「やっぱり、ネクタイの違いですかね」

「そうかもしれないな」

「顔色もずいぶん良くなったみたいですし」

「大げさなこというなよ」

「気づいてませんでした? ずっと思いつめたような顔してましたよ。声かけるのも遠慮してたくらいなんですから」

「もう異動して3ヵ月たつからな。さすがに、少しは周りが見えるようになってきたよ」

いわれてみれば、このネクタイがお守りのようなものだったのかもしれない。

ぼくは在庫から開放されたことで、先入観を持たずにマーケットを見ることができるようになっていた。ニュースを分析し、投資行動へのインパクトを予想する。マーケットの波に乗っている気分だった。

 

Mという銀行の売り引き合いを、今でも鮮明に憶えている。はじめてマーケットの先頭に立つことを意識したディールだった。

その投資家は、マーケットでもえげつないことで名を知られていた。10社以上の証券会社にプライスを聞き、一番札を提示した会社に売却する。

いつもと違うのは、買い取り価格の再提示を求められたことだった。0.01%程度の違いだ。もう少し改善すれば、取引できるかもしれないという。気を遣ってくれているのかもしれないが、ぼくは値段を上げてまで勝ちたいと思えなかった。

「君の値段を見て、腰抜けディーラーって怒ってるよ」

「そうですか……」

M銀行からのクレームを伝える沼田という営業担当者の声に立ち上がったが、ぼくは頭を下げることができなかった。

「何だよ、その顔は。文句でもあるのか?」

「いいえ……」

「本当のことをいってるだけだろ。そんなプライスしか出せないで、よくディーラー席に座ってられるな。悔しくないのかよ」

「すみません」

ぼくが謝ったのに満足したのか、ようやく沼田は席に戻った。