新米「腰抜け債券ディーラー」を豹変させた上司のひと言

東京マネー戦記【13】2002年夏
森 将人 プロフィール

「メチャメチャに売り崩してもええ」

ディーラーのむずかしさは、マーケットの変動に合わせて取引する商品の価格がどんどん変わっていくことだ。買い取った債券が予想外に高い価格で転売できることもあれば、買い取り価格より低くなければ売れないこともある。

売り手と買い手のバランス次第で、プライスは大きく変化する。大事なのは値上がりしそうな債券を探し出すことだ。

しかし日々の注文に追われていると、石に紛れ込んだダイヤモンドに気づかない。何が儲かるかの予想もつけることができずに、しばらく目の前の値動きを夢中で追いかけていた。

怖かったのは、相場の下落局面だ。投資家の売りが集中して、買い手がいなくなる。

上司から取引につき合うなといわれ、しばらく取引のない状態が続くと、今度は営業担当者から、このままでは出入り禁止になるといわれる。完全な板挟みで、主体的に仕事を進められない自分がもどかしかった。

「またつき合うたんか。お前も好きやなあ」

ぼくが顧客の要望に応じて、ある社債を買い取ったときのことだ。木村のいいぶりには、皮肉が混じっていた。

「値段はかなり安く取れましたよ。それにこれ以上つき合わないと、顧客との関係が持たないみたいですから」

「アホか。そんなのウソに決まっとるやろ」

「ウソですか?」

「そうや。どんなに客を怒らせたかて、次も引き合いに来るに決まっとるやろ。奴らは値段のええ業者に発注するだけや。そんなことに気を遣う前に、自分の置かれとる状況を認識せえや。まだ値下がりするかもしれんで」

「……」

ぼくは何もいえずに、自分の在庫表を見直した。保有金額は、ここ数ヵ月間の最高水準に達していた。顧客との関係を考慮して、要望に対応した結果だった。

 

金融担当大臣が爆弾発言をすれば、さらにマーケットは大きく下落しかねない。投資家からの買い値がいくら安くても、損することに大きな違いはない。そう考えると背筋が寒くなった。

「そろそろ目え覚ませよ。自分の損益はどうなんや。つき合うとる余裕なんかあるんか?」

「そんな余裕ないですけど、対応しないわけにはいかないじゃないですか」

「顧客のオーダーを無視しろとはいっとらん。もう少し頭使えいうとるんや」

「使ってるつもりです」

「値上がりするかもしれんといいたいんか?」

「……はい」

「そんなもん、頭使っとるといわん。祈っとるだけや。投資家と同じマインドで考えても仕方ないやろ。

何で奴らが債券を売っとるかわかるか? ほかの投資家が売っとるからや。そんなもんに信念なんてない。お前がやっとるのは、あいつらと何も変わらん。別に証券会社だからって、買い支えなあかんわけやないんやで。いったんマーケットがメチャメチャになるまで売り崩したってもええ。それで本当に安くなったら、買えばええんや」

ぼくは木村の言葉に、何もいえなかった。マーケットの変化を予想するのは、自分がいつでも動けるようにしておくためだ。目の前の取引に追われるばかりでなく、買いたいときに買えるようにしておかなければならない。

その日から、ぼくは損失覚悟で在庫を売り払った。