新米「腰抜け債券ディーラー」を豹変させた上司のひと言

東京マネー戦記【13】2002年夏
森 将人 プロフィール

人間らしさを置き去りにした毎日

「ちょっといいですか?」

証券分析部のときに育成を担当していた新入社員の大野から声をかけられたのは、夜の8時を過ぎた頃だった。

「別にいいけど、どうしたんだ?」

めったにディーラー席に来ることのない顔を見て、ぼくは1ヵ月も経ってないのに懐かしい気持ちになった。

「少しだけ時間をいただけないかと思いまして」

「どこか行くか?」

うなずく大野の表情を見て、ぼくは携帯電話と財布を持った。

 

向かったのは、証券分析部の隣にある会議室だった。毎朝のミーティングで使っていた部屋だ。ドアを開けると、証券分析部のスタッフがそろっていた。

「誕生日、おめでとうございます」

「えっ?」

ぼくはビックリして声が裏返ってしまった。7月はぼくの誕生月だった。忘れていたわけではないが、会社でいわれる言葉だとは思っていなかった。

「これ、みんなで買ったんです」

スタッフの一人が、紙袋を差し出した。袋の形から、ネクタイであることはすぐにわかった。

箱を開けると、出てきたのはピンクのネクタイだった。

「みんなで話したんですけど、先輩のネクタイって、暗い色が多いじゃないですか。落ち着いた色もいいですけど、派手なほうが儲かりそうな気がしたんです」

大野が早口で説明した。おそらく明るい柄を好む彼の趣味なのだろう。

「これをしたら儲かるかな?」

「絶対うまくいきますよ」

普段は慎重なものいいが多い大野が断定的な口調でいうと、本当にその通りになりそうな気がしてくるのが不思議だった。

「ありがとう。ぜひ使わせてもらうよ」

ぼくは予想していなかったプレゼントに、不意に涙を流しそうになって目を反らした。

毎日の取引に翻弄されるばかりで、ネクタイの柄に気を遣う余裕もない生活を送っていた。ぼくこそ、途中で放り出してきた後輩を気にしなければならなかったのに、彼のほうが自分のことを思ってくれているのがうれしかった。

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ディーラーという業務の特殊性も、影響していたかもしれない。常に神経を使うが、デスクに座って取引を待つのが中心だ。売買量と損益で優劣が測られるだけで、そこには人間的なやり取りがなかった。感謝するという感情を思い出したのさえ久しぶりのような気がした。