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新米「腰抜け債券ディーラー」を豹変させた上司のひと言

東京マネー戦記【13】2002年夏

マーケットの変動はまるで「波」だ。ときに自らうねりを作り出し、リスクを取らねば勝利は得られない。17年前、駆け出しの債券ディーラーの「ぼく」がディールの魅力に取り憑かれたのは、思えばこの瞬間だったーー。

最前線で戦う証券ディーラーたちの日々を描く「東京マネー戦記」第13回。

(監修/町田哲也

 

「竹中プラン」の衝撃

ぼくが債券ディーラーになったのは、29歳になる直前だった。

マーケットの変動と直に格闘するようなビジネスを、1年ほど前から希望していた。入社してからほぼ4年間、証券分析の部署にいたので、業務に飽きはじめていたのも否定できない。20代のうちに新しいことに挑戦してみたかった。

ディーラーはマーケットの変動を予想して、投資家との取引を通じて収益をあげるのが任務だ。ぼくが担当することになったのは、銀行や生命保険会社など金融機関の発行する社債だった。

今までの部署が比較的長いスパンで成果を求められるビジネスだったのに比べると、1日単位の損益で成績が測られるディーラーの世界は刺激的だった。知識も経験もなかったが、自分に対する自信は誰よりも強く持っていた。

気がかりなのは、後輩のことだった。入社4年目は、新入社員の育成担当を命じられていた。理系の大学院卒で、高い分析能力を有する新人ばかりだった。本来ならもう半年は面倒をみるべきだが、ぼくとしても異動のチャンスを逃したくなかった。

「ちゃんとヘッジしたんか?」

ディーラー席に座ってまず先輩にいわれたのが、保有債券の金利ヘッジをすることだった。

ディーラーは在庫として、数百億円から1000億円程度の社債を保有していた。金利は常に変動するので、放っておけば夜のうちに億単位の損失をしかねない。

そこでディーラーは、投資家との取引が決まった瞬間に、債券と同年限の国債を反対売買して金利変動の影響を受けないようにする。このヘッジという取引を忘れることがあり、異動してしばらくは先輩に何度も怒られていた。

「やべっ」

「またか、早う売れ」

このときは投資家の売り、つまりディーラーの買いだったので、ぼくは取引と同時に国債を売らなければならなかった。すぐにヘッジの指示を出すと、後ろから頭を叩かれた。

「何度いうたらわかるんや。取引したら、すぐにヘッジや」

「はい」

木村悟志は5歳ほど年上で、ディーラーのチームヘッドだった。大阪弁で怒鳴りつけるので、どこにいても目立ってしまう。ぼくは木村の忠告に返事をしたが、次の引き合いに忙しくて反省するどころではなかった。

マーケットが動くと、ディーラーに何人もの営業担当者がいっせいに社債の価格を聞きに来る。店頭のオーダーに対応しながら、取引ごとにヘッジをし、相場観を働かせて収益をあげるなど、当時のぼくには想像を絶することだった。

金融機関の社債が頻繁に取引される背景には、政治の動きがあった。新しい政権で民間出身の金融担当大臣が打ち出した施策に、マーケットが揺れ動いていた。

いわゆる竹中プランだ。

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新大臣から、銀行の不良債権、つまり業績不振企業への融資を3年間で半減させる方針が示されていた。融資の引き揚げは、企業の体力低下を招き、銀行に多大な損失計上を迫る。

マーケットの懸念が真っ先に向けられたのが、メガバンクだった。主要行の発行する債券は売りの標的になり、利回りは乱高下を繰り返していた。この動きは、ディーラーになりたてのぼくの成績に大きく影響した。