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川崎19人殺傷事件「無敵の人がやった」という物語にひそむ危険性

ネットで白熱する議論に思うこと

神奈川県川崎市の登戸で起きた無差別殺傷事件。小学6年生の女子児童と39歳男性の2名が犠牲となり、17名もの負傷者を出した。なによりはじめに、事件の犠牲者とそのご家族に深く哀悼の意を表したい。

この事件はマスメディアやインターネットでもひじょうに大きく取り上げられている。犯人とされる51歳の男も事件直後に自殺したことで、事件の全貌解明は難しくなってしまったが、人びとは自分が事件をどのように受け止めているかを口々に表明し、議論が白熱している様子だ。

本稿の主旨にかかわる重要なことなのであらかじめ述べておきたい――私はこのテキストを事件当日の2019年5月28日に執筆している。

 

「平和な社会」と「凶悪犯罪」のコントラスト

まず、事件を考える上での前提事項をおさえておこう。

こうした凶行が起きるたび、社会は大きな動揺に包まれる。世相の荒廃を憂い、治安の悪化を嘆く声がそこかしこから漏れ聞こえるのも常なる光景となった。

しかしながら、そうした世論に反して、警察庁の犯罪統計によると、殺人・強盗・放火・強制性交等・略取誘拐・人身売買及び強制わいせつなどの「重要犯罪」は年々減少していることが明らかになっている。

(上図:警察庁『犯罪統計資料 平成31年1~4月分』より引用 )

また平成30年版「警察白書」によれば、平成25~29年までの人口10万人当たりにおける刑法犯罪数も年々減少傾向にある。すなわち、よく世間で言われるような「社会では凶悪犯罪が増えている」という直感に反して、社会はむしろ平和で安全なものへと日々「改善」されつつあるということだ。

しかし、統計的・客観的事実が個人の体感治安と一致するわけではないようだ。

身近な観測範囲から「暴力」や「悪意」が排除されていくこの社会において、かえって数は少ないものの散発的に生じる事件や事故がもたらすインパクトが強まってしまうことはありえるだろう。平和で安全な世界だからこそ、それを突如として打ち破る存在とのコントラストは大きくなるのだ。

平和で安全な社会になっていること自体が、平和で安全であることへの実感を薄れさせることもある。それらが空気のように当たり前になることによって、平和や安全の便益を感じにくくなり、逆に不安をもたらす事象への感度が強まることすらあるだろう。