退屈な留年時代に見た「パラリンピック」

大学は、山梨大学工学部機械システム工学科に進学した。少年の夢に向かって一歩前進だ。しかし、語学の単位を取り残したために4年で卒業することができず、毎週1回の授業に通うだけの1年が始まった。

退屈だった。バイトをしてもお金が貯まるばかりで使い道がなく、せっかくの時間を持て余していた。秋のある日、テレビでも観るかとNHKにチャンネルを合わせたところ、陸上競技の国際試合の映像が映った。でも、なんだか様子が違う。

それは、パラリンピックの特集番組だった。

「パラリンピックという言葉自体を知らなかった」と沖野氏は振り返る。足の先端に薄い板状のものを装着して、トラックをものすごいスピードで駆けぬける選手たちに「なんだこれは」と驚いた。調べてみてはじめて、その薄い板は走ることに機能を特化した陸上競技用の義足だと知る。それはとても格好いいものとして、沖野氏の脳裏に焼きついた。

足を失った人の義足を作って、一緒に走りたい

そう考えるようになり、急に目の前が開けた気がした。退屈してなんかいられない。沖野氏は、埼玉県所沢市にある国立障害者リハビリテーションセンター学院の義肢装具学科に願書を提出、定員10名の狭き門を無事くぐり抜けた。

2004年、国立障害者リハビリテーションセンター学院にて 写真提供/沖野敦郎

陸上選手としての視点

学院時代のある日、義足の同級生に誘われて、義足のランニング教室を見学したことがあった。「ヘルスエンジェルス(現・スタートラインTOKYO)」という日本初の義足ユーザーのためのスポーツチームの練習である。義肢装具界の第一人者、鉄道弘済会義肢装具サポートセンターの臼井二美男さんが代表を務め、パラリンピックに出場経験のあるトップアスリートから義足を履いて間もない初心者まで、広いレベルの義足使用者が参加していた。

練習を見学した沖野氏はふたつのことを思った。

ひとつは、陸上選手としての感想だ。トラックを笑顔が支配する練習風景、鍛え上げたとは言えない選手たちの肉体、沖野氏には「これが陸上競技?」という疑問を抱いてしまったのである。よく言えばアットホームなのだが、圧倒的に緊張感が足りない。あのときテレビで観たパラリンピックの迫力とはかけ離れている。そう感じてしまった。何回か見学をするうちに、障害者スポーツに対する情熱が冷めかけたこともあったという。

高校生時代、沖野氏は走り幅跳びの選手だった 写真提供/沖野敦郎

だが、未来の義肢装具士としては別の感想も抱いた。板バネを履くトップアスリートも、ついこの間やっと歩行練習を始めたばかりの義足初心者も、いっしょに練習する姿に心打たれた。義足の歩行練習はつらい孤独な戦いだ。仲間たちと笑顔で話しながら情報を交換し、義足と前向きに取り組める環境はすばらしいと思えた。義肢装具士の臼井さんはいつも笑顔の中心にいて、練習中も臨機応変に義足の調整を行っていた。

沖野氏は、国立障害者リハビリテーションセンター学院を卒業すると、2005年4月、鉄道弘済会義肢装具サポートセンターに、新人の義肢装具士として就職する。そして、臼井さんのやり方をひたすら学び続けること3年余、沖野氏はパラリンピックの晴れ舞台に立つことになった。


構成/園田菜々

次回は6月2日公開予定です

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