マスコミの「迷惑行為」が日本社会でこんなに叩かれる理由

不寛容な寛容社会の構造
津田 正太郎 プロフィール

さらに言えば、日本人全体のマナーが以前と比べればかなり向上していることも、迷惑の定義を難しくしている。次に紹介するのは、昭和30年代における鉄道での団体旅行の様子を描いた文章である。

車内ではすでにいいご機嫌になった男女の嬌声が飛び交い、呂律の回らぬ舌で唄う蛮声が響き渡る――それはまさに混沌を絵に描いたような光景であった。そして、団体が下車した後にはゴミの山が築かれた。7

こうした誰がみても明らかな迷惑行為は減少した。だがそれで迷惑に対する糾弾までも減少するわけではない。むしろ、これまでは迷惑行為とみなされなかったようなことまで、そうみなされる可能性がでてくるのだ。たとえば、体臭や食べ物など、さまざまな匂いにかんする迷惑をその例として挙げることができよう。

ここで紹介したいのが、社会学者のエミール・デュルケムによる犯罪発生の必然性にかんする記述である8。デュルケムによれば、犯罪行為を抑制するためには、それに対する憤りだけではなく、以前には犯罪と呼ばれるほどではなかった過ちにたいする憤りが必要になる。窃盗を減らすためには、以前には問題視されなかったちょっとした「ごまかし」までもが憎むべき行為として断罪されねばならないということである。

 

したがって、社会の治安が改善されていったとしても、より軽微な過ちが犯罪として定義し直され、憎まれるようになるため、犯罪はいつまで経ってもなくならない。仮に聖人だけを集めて社会を作ったとしても、そこでもやはり犯罪は起きるとデュルケムはいう。ただしそこでは「俗人たちには許容されるにちがいないさまざまな過ち」が糾弾されることになるだろうというのだ9

さすがに日本人が聖人になったというのは言い過ぎだろうが、それでも高度のマナーを備えた人が増えれば、以前には問題視されなかった行為が迷惑だと批判されるようになる可能性は高い。

マナーの「過剰化」も起きるかもしれない〔PHOTO〕iStock

しかし、繰り返しになるが、何が迷惑行為なのかを定義するのは難しく、迷惑をかけたとされる側と、かけられたとされる側とが簡単に入れ替わるようなことも起きる。結果として、「迷惑な人」と叩くという娯楽だけではなく、「迷惑だと訴える迷惑な人」を叩くという娯楽すらも生じることになる。

たとえばネット炎上についてみると、迷惑とされるツイートが炎上する光景はもはやおなじみである。多くのリツイートや非難ツイートがなされ、その様子を伝えるネット記事が量産される。ところが、それらのネット記事をもとに問題のツイートまでさかのぼってみると、意外にもたいして批判されていないということが時々ある。