マスコミの「迷惑行為」が日本社会でこんなに叩かれる理由

不寛容な寛容社会の構造
津田 正太郎 プロフィール

マンションの階下の住人にうるさくならないよう家の中では静かに歩かせる、電車の座席に座らせたときには子どもの靴が隣の人に触れないようにする、飲食店で泣き出したならすぐに抱っこして店から連れ出す等々、とにかく人様に迷惑をかけないことが外出時の至上命令であったとすら思う。

このように他人に迷惑をかけないよう気を遣っている人間にとって、とりわけ不愉快なのが、そういうことをまったく気にせず生きているように見える人びとである。マンションなのに子どもをドスドス歩かせる、電車のなかで子どもを傍若無人にふるまわせる、飲食店で子どもが騒いでも注意しない等々を目にすると、自分が気をつけているぶんだけ余計に腹が立つ。ルールを一生懸命に守ろうとするほど、そのルールを破っていても平気にみえる人に対して不愉快になるのだ。

不愉快になるなら見なければよい、というのは正論である。ところが、世の中は必ずしもそのようには回らない。不愉快だからこそ余計に見たくなる、というねじれた心理が存在するからだ。

この点で参考になるのが、社会学者の奥村隆による以下の指摘である。「場に応じた正しいふるまいをする(=リスペクタブルである)」という社会規範の広がりについて、奥村は次のように述べる。

彼らは、すでにそこにいる「リスベクタブルでない他者」を非難するだけではなく、それまでそう名づけもしなかった人々のなかにことさら「リスペクタブルでない」ものを発見し、「リスペクタブルでない他者」をわざわざ作り出そうとするのだ。…そのような「他者」がいるかぎり「私」は彼らよりもずっと「リスペクタブル」である。6

これを本稿の文脈に置き換えていえば、「迷惑な人」をあえて探し、糾弾することが、「迷惑をかけない私」という自己イメージを守るために必要とされ、格好の娯楽になるということである。

 

乱反射する迷惑

しかし、法律でその定義が決まっている犯罪とは異なり、何が迷惑行為なのかははっきりと決まっているわけではない。

ベビーカーに子どもを乗せたまま満員電車に乗ってくる人と、その人に聞こえるように文句を言う乗客がいたとして、どちらが迷惑な存在なのかは意見の分かれるところだろう。実際、迷惑だとクレームをつけている人のほうが周囲からすれば迷惑に感じられることは少なくない。