人はなぜ「危所に遊ぶ」のか(中野信子)

有限のリソースを効率よく使い、可能な限り長く生き延びることが目的なら、捕食者に見つからぬところへ引きこもり、できるだけ動かずに過ごしたほうがずっと賢い。

こういうやり方で生きている生物の代表格は海洋生物のナマコで、彼らはひたすら砂を喰み、わずかな栄養分を黙々と吸収していく。泳ぎもせず、嚙んだり刺したりして敵を攻撃することもなく、攻撃されたら自分の腸のほとんど全長を吐き出して、敵に食べさせている隙に逃げる。腸は2ヵ月で元に戻る。

まるでミニマリストだ。不要なものはすべて捨て去り、ただ生き延びることだけを目的に過ごす。目、鼻、耳、舌といった感覚器官もない。皮膚で明るさを感じはするが、大量に入力してくる情報がないから、それを処理するための脳もない。心臓すら持っていない。

コストパフォーマンスよく生存確率を上げる方法としては洗練されている。全世界の海のどこにでもナマコがいるのは、それほど彼らの方略が繁殖適応的だから、ということになるだろう。

それでは一体なぜ、私たちはそれと真逆の属性―わざわざ大量の情報を求め、処理し、リスクを取って楽しむ―を持っているのか? 場合によってはそれが命を落とす要因にもなる。だがこの文字通り致命的な要素を私たちは有り難がり、この形質を強く持つ人を「好奇心旺盛」だなどと、もて囃すことさえする。

もはや手垢のついた学術用語だろうが、人類の特徴の一つに、新奇探索性がある。新しいものを選好し、ハイリスクハイリターンの勝負に心躍らせ、どんなに堅実な人物であっても、退屈な時間が長く続けば心を蝕まれ、一定の刺激がなければ健全には生きられないよう仕組まれている。

一つ言えることは、人類もまた地球上に広く分布し、世界的に見れば、その数は増加の一途であり、繁殖に成功している種だということ。

つまり、新奇探索性を持つことが、人類にとっては適応戦略であったということだ。

当面の生存確率を度外視して、新しい情報、新しい環境を求めて、リスクが高くとも新しい挑戦をすることが私たちの戦略であり、武器であった時代があったのだ。

無論、未知への挑戦には危険が伴う。ただその危険を押して勝負し、時には自身の生命というコストをかけても、積算すればリターンのほうが大きかった。そうして生き残った者の子孫が私たちというわけだ。

一見馬鹿馬鹿しいような、危険な何かへのチャレンジは、私たちが人間として生きることの本質に裏打ちされているといえるだろ う。